【佐藤蛾次郎の生き方】亡くなった後、友人たちが出した秀逸な談話と手作りカレーの関係

  • ブックマーク

ドラマの役名から「蛾次郎」

 さて、そんな蛾次郎ではあるが、ここで簡単に経歴を紹介しておきたい。

 大阪府高石市で1944(昭和19)年、歯科医師の四男として生まれた。本名・佐藤忠和。小学生の時、大阪のテレビ局の児童劇団に入り、子役として活躍する。テレビドラマ「神州天馬侠」(フジテレビ)の役名から「蛾次郎」とした。

 転機は山田洋次監督の映画「吹けば飛ぶよな男だが」(68年)。オーディションに何と2時間の遅刻。蛾次郎は悪びれた様子もなく「あ、どうも」。いきなりタバコを吸って、短い足を組んで椅子に座った。しかも「どんな役をやりたい?」と言う山田監督の質問に「不良」。そう答えたそうである。そのふてぶてしさが監督の心を動かしたのだろう。採用となり、希望通り「チンピラ」を演じた。

 だが、いざ撮影に入ったら苦労の連続だった。「なかなかOKが出ない。監督は自然な芝居を要求する。いかにも、というのはダメだった」

 寅さん映画であのモジャモジャ頭がほぼ完成するのは、吉永小百合さん(78)がマドンナ役として出演した第9作「柴又慕情」(72年)のころからではないか。「お前の役は、簡単な役でいいなあ」とうらやましがる人もいたが、どこか抜けている人間を演じるのは、相当難しかったにちがいない。

 失敗談もある。冬、鐘つきシーンの撮影まで時間があり、参道の天ぷら屋で待機していた。店主の勧めで体を温めようとブランデーを飲んだが、酔っ払ってしまいオーバーな演技となってしまった。帰りのタクシーの中で山田監督からこんこんと説教された。

 憧れの嵐寛寿郎(1902~1980)と第19作「寅次郎と殿様」(77年)で共演した時は、殿様役の嵐をリヤカーに乗せて走る場面を演じた。

「蛾次郎、もっと速く」

 と山田監督。何回もやり直す。後ろから、

「辛抱せいよ、辛抱せいよ。役者は辛抱だよ」

 と声が聞こえた。嵐だった。

次ページ:「蛾次郎、いつもご苦労だね」

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。