横尾忠則が明かす画家・谷内六郎の素顔 「アポなしで家を訪れ、大声で歌を歌い…」
谷内六郎さんは「週刊新潮」の古い読者には懐しい名前ですよね。その谷内さんと僕は近所に住んでいたこともあって、年上の親友として亡くなるまでおつき合いをしてきました。
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谷内さんは年齢のわりには背が高く、作品からは想像できないかもしれませんが、なかなかのモダンボーイというかモダンおじさんでした。背が高いから、いつも背をまるめて、ちょっと猫背っぽい格好で、わが家に来られる時も、玄関の鴨居は高いのですが、ぶつかると思ってか前かがみの格好でニューウと入ってこられます。
すると谷内さんの頭髪のポマードの匂いがプーンと玄関に広がって、今どきポマードなどつけている人はいないのですが、そういう所はムカシの人です。ポマードの匂いと一緒に、手に谷内さんの直筆の絵の描かれたウチワや、土でこしらえた可愛いいお地蔵さんを持って、「お嬢ちゃんに」とあの人懐っこい表情で、ちょっと恥ずかしそうにして、背の高い体を折って入ってこられます。服はいつもちょっとよれっとした背広でしたね。
わが家にはインドで買った千頁もの部厚い大きなノートがあって、クリエイターの人達のゲストブックとして、いつも落書きをしてもらっているのですが、谷内さんは、そのノートに絵を描くのが好きで、「また描かせていただけませんかね」と遠慮しておっしゃる。僕は何頁でもいいです、描くだけ描いて下さいとお願いして、谷内さんの絵のコレクションが増えて大喜びです。
そして、いつもきまって話されるのは「週刊新潮」の表紙の絵のことです。自分が描きたい絵を描かせてもらえないと、来られる度に苦情をいっておられました。「いつも青い空ばかり要求されるんですよ。僕はウソのような青い空は描きたくないんです。子供はどこか暗い感情を持っているので、そんな子供の本心を描きたいのです。それがリアリティなんです。絵は虚構ですが、ウソっぱちの虚構は描きたくないのです」。
谷内さんの絵の本領は、日本人の生活の中にある、やるせない暗さ、三島由紀夫のいう「決して水洗なんかではない、暗い汲取便所の恐怖と快楽」の光景です。また「遠い汽笛、……どこの家でもきこえて、子供の夜を、悲しみでいっぱいにしてしまったあの汽笛、しかし同時に夜に無限のひろがりと駅の灯火の羅列とさびしい孤独な旅を暗示したあの汽笛」こそ谷内六郎の本領です。谷内さんはそんな絵を描きたいのです。そこにはやるせない日本の原風景があったと思うのです。それを描きたかったのです。それを描かしてもらえないといつも落ち込んだ様子で、僕にしみじみと語られるのです。
「青いウソの空はもう嫌です」と何度も繰り返し、怒りを込めて語られ、「横尾さん、誰からも頼まれない絵を描きましょうよ。約束して下さい」。僕もイラストはもういいやと、この頃は出版関係の絵は止めていました。
前回、本稿で書いた画家転向の話のほんの数ケ月前に、谷内さんは大きいキャンバスを沢山仕入れて、「僕は横尾さんより先きに画家になりますよ」といって、「見に来て下さい」といわれて谷内さんの2階の臨時のアトリエに伺いました。そこにはすでに完成された大きい油絵が並んでいて、谷内さんとの約束を守っていないことを、心に恥じたのを思いだします。僕が画家に転向する寸前に谷内さんは先きに転向しておられたのです。そんなことが、僕のニューヨーク近代美術館での画家転向に無意識裏に結びついたのかも知れませんが──。
谷内さんはいつもアポなしで突然現われます。
「イヤー、今まで大江健三郎さんとお茶を飲んでいましてね、その帰りに寄りました」
「ヘエー、大江さんと何の話をするんですか」
「僕は政治の話をします。大江さんは子供時代の話をされます」
「逆じゃないですか」
「ヘッヘッヘッヘ、こう見えても僕はインテリゲンチャーですからね、ハッハッハッハ」
いやー、まいったまいった、と僕は頭をかくしかなかった。
「今日は気分がいいので歌を歌っていいですか」
「イヤー、どうぞどうぞ」
ソファーから立ち上って、直立不動で、童謡の「浜千鳥」を朗々と学校の教室で歌うように、大声で他にも何曲か歌って、「あゝ、気持ちよかった、有難うございました」と帰っていかれるのです。なんともさわやかな一日でした。
あんなに暗い絵を描きたいとおっしゃっていた谷内さんが、僕が谷内さんの画集を編集している時、「今、病院です。暗い絵や死にまつわる絵は画集から全部はずして下さい。たってのお願いです」と電話してきて、その2日後だったかに谷内さんの死を、僕の郷里で同級生達とお好み焼を食べている最中に電話で知らされたのです。