「こんな所へ行ったらだめだ。殺されるよ」――殺到するオファーを逃れ3カ月のアメリカひとり旅へ 「水谷豊」が出会った恩人の一言
「傷だらけの天使」でブレークした水谷豊にはオファーが殺到。かけもちでの撮影をこなす中で精神的にも体力的にも限界を超えてしまった水谷は、ようやく長期休暇を許される。3カ月の予定でひとり向かったのは憧れのアメリカ、長距離バスで各地を巡る旅に出発!……のはずが!?
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「こんなに自分の過去を振り返ろうとしたことは一度もなかった」という初めての著書『水谷豊 自伝』(水谷豊・松田美智子共著/新潮社)から、プライベートでの知られざるエピソードを紹介する。
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「傷だらけの天使」の乾亨を演じて注目を浴びた水谷には、出演依頼が殺到した。
75年には「おそば屋ケンちゃん」(TBS系列)、「太陽ともぐら」(フジテレビ系列)、「俺たちの勲章」(日本テレビ系列)などにゲスト出演。さらには「ほおずきの唄」(日本テレビ系列)や、「傷だらけの天使」を撮った工藤栄一監督に呼ばれて、京都で「影同心II」(TBS系列)を撮影。同時期に東京で「夜明けの刑事」(TBS系列)に出演するために新幹線で往復し、慌ただしく掛け持ちの仕事をこなしている。
「『ほおずきの唄』は、島田陽子さんと近藤正臣さんが主演のドラマで、大山のぶ代さんとも共演しました。僕の役は青柳勘兵衛という日本舞踊のお師匠さん。弟子たちにおネエ言葉で話す面白いキャラクターでした。撮影が終わってからですが、夕方、赤坂の街を歩いていると、お店に出勤する前であろう着物姿の“綺麗なおネエさん”が近寄ってきて、『貴方は私たちの代表よ』と言って僕の手を握ったんです。僕は決して彼らの、いや彼女たちの代表ではなかったのですが、ドラマの影響の大きさを実感しましたね」
「ほおずきの唄」を演出した田中知己は、日本テレビ生え抜きのディレクターで、萩原が主演した「前略おふくろ様」の演出も手掛けている。
「その田中さんが、のちに僕と大竹しのぶさんが夫婦役の『オレの愛妻物語』(78年)、そして『熱中時代』(78~81年)を作ってくれた演出家でした。実は『ほおずきの唄』は演ろうかどうしようか、迷った作品でした。でも、もし演っていなければ田中知己さんとの出会いもなかったのですから、『熱中時代』も生まれてなかったかも知れません。作品もさることながら、人との出会いにどれだけ恵まれてきたかがよく分かりますね」
恩人とも言える人との出会いはあったものの、1年間に多数のドラマに出演した結果、へとへとに疲れてしまい、休養が必要になった。
「これに懲りて、それ以来、テッパリ(スケジュールが他の作品の撮影や収録と重なること)はやっていません。翌年(76年)はまとめて休暇を取り、ひとり旅に出たんです」
傑作なおばあちゃんとの出会い
このとき彼は23歳。初めての海外旅行である。
「3カ月間の予定で、旅行会社の人に希望を話してスケジュールを組んでもらいました。グレイハウンドのバスに乗って、アメリカ各地を巡るつもりでした」
本土へ行く前にはハワイに寄り、オアフ島で1週間ほどゆったりと過ごした。
「最初の目的地はロスアンゼルスです。ロスには立川市にいた頃に知り合ったチャイニーズアメリカンの友人がいたので、彼に会うつもりだったけど、住所と電話番号を書いたものを忘れてしまったんです。ロスの空港に着いてから気付いたので、どうしようかと思ったけど、『ほおずきの唄』で共演した大山のぶ代さんが『長期休暇を取ってアメリカに行くのなら、この人たちに連絡してみなさい』と紹介してくれた人がいることを思い出した。その人に電話したら、空港まで迎えに来てくれました」
空港で会ったのは、ビーチさんとトシさんという日系二世のご夫婦だった。二人は70歳くらいで、人のいいおじいさんとおばあさんに映った。
「僕はどこかホテルを紹介してもらって、そこに泊まるつもりだったんだけど、トシさんに『そんなことは心配しないで、家にいらっしゃい』と言われて、マリナ・デル・レイっていう大きなヨットハーバーがある街に連れて行ってもらった。そこに住んでいる裕福なご夫婦だったんですね。当時は果樹園とか営んでいたのかな」
マリナ・デル・レイはロスアンゼルス郡南部の高級シティリゾート地だった。近くにユニバーサル・スタジオ・ハリウッドがあり、セレブたちが好んで訪れる。
「おじいちゃんのビーチさんは日本語がまるで話せなくて、おばあちゃんのトシさんは片言くらいだった。昔は夫婦でホテルを経営していたそうです」
水谷はトシさんに「アメリカで何をするつもり?」と聞かれ、グレイハウンドバスのスケジュールを見せた。トシさんの反応は意外なものだった。
「『こんな所へ行ったらだめだ。あなた、殺されるよ。何を考えているの』と大反対されたんですよ。『初めてアメリカに来て、何も知らないのに、南部のこんな危険な地域へ行くなんて、とんでもない』とか、とにかく行かないように説得された。『そのスケジュールはすぐにキャンセルしなさい。あなたがやりたいことを何でもやらせてあげるから、ここにいなさい』と言われてね」
彼はトシさんの言葉に従い、しばしマリナ・デル・レイに滞在することにした。
「今、考えると、もし日本で立てた計画を実行に移していたら、何が起きていたか、分からないですね。人種差別とかある街も含まれていたから、危なかった。それで、猛反対してくれたトシさんというのが、傑作なおばあちゃんでね。彼女は話が面白くてお元気で、ビーチさんが仕事から帰って来て一緒に食事をした後、僕と二人で朝までコーヒーを飲みながら話すんです。若い頃、ポール・ニューマンに会ったときにあまりにも格好良くて、体が震えて腰を抜かしてしゃがみ込んでしまった話をジェスチャーを交えながら面白おかしく話してくれたり、お腹がすくと夜中の1時だろうが2時だろうが、近くのファミレスへ二人で行ったりして、日系二世だけど、アメリカ人よりもアメリカ人らしい人でしたね」
彼女はよほど水谷を気に入ったのか、退屈しないように、日々気を配ってくれた。
「トシさんはギャンブル好きで、ラスベガスにも何度か連れて行ってくれて、ブラックジャックとかの賭け事も教えてくれました。彼女は、ラスベガスではどこへ行っても顔が利いて、ホテルのショーを見るときも、マネージャーとひと言ふた言ヒソヒソ話をするだけで案内されたのがいつもセンターのブース席でした。なにか特別なパワーを持っていたのでしょうね。トシさんのおかげで、刺激的で楽しい経験をたくさんさせてもらいました」
18歳で家出したときもそうだが、水谷が困っているときには助け船がやってくる。本人も認めるように、人との出会いに恵まれているのだ。トシさんに守られ、マリナ・デル・レイで過ごした時間は、忘れられない思い出になった。
「そのあとは、トシさんが探し出してくれたチャイニーズアメリカンの友人と会って、ロスでしばらく遊びました。ロスを選んだのは、友人がいたこともあるけど、僕が中学生の頃、ママス&パパスの『夢のカリフォルニア』という歌が流行(はや)っていて、カリフォルニアはどんな所だろう、という興味があったからです」
水谷が帰国して3年後、トシさんとビーチさんが来日した。二人に再会した水谷は、トシさんの友人宅で食事をしたり、楽しいひと時を過ごしたという。
初の海外旅行のあと、水谷はロスアンゼルスを好きになり、まとめて休暇を取るときには、西海岸を中心に訪れるようになった。
「当時はニューヨークの方が危険と言われていて、ロスより犯罪件数が多かったんですね。20代で最初にニューヨークへ行ったときには、一人で食事に行かないように注意されたくらいだった。でも、あるときから逆転するんですよ」
1994年、第107代ニューヨーク市長に就任したジュリアーニが、徹底して市の凶悪犯罪撲滅や、治安改善に努めた結果、大きな成果をあげ、犯罪件数が激減したのだ。
「ニューヨークの方がロスより安全になったので、そのうちに行きたいと思っていたけど、なかなか機会がなくて、二度目に行ったのは10年以上あとのことですね」
プライベートではもっぱらアメリカを訪れていた水谷だが、仕事では世界各地へ渡航している。後年になるが、ドラマの撮影でインド、アフリカ、フランス、イギリス、香港へ。コマーシャルの撮影ではポルトガル、イタリア、デンマークなどを訪れ、世界の多様な文化に触れることができた。
赤面するような失敗も…
海外では楽しい思い出が圧倒的に多いものの、赤面するような場面もあった。プライベートなひとり旅を続けていた頃のことである。
「僕が16歳のとき立川で知り合った友人は、ジェリーっていうチャイニーズアメリカンなんだけど、彼とロスアンゼルスで会って、『ビバリーウィルシャー・ア・フォーシーズンズ・ホテル』でお茶を飲んでいたのね。このホテルは『ビバリーヒルズ・コップ』とか、『プリティ・ウーマン』にも登場する有名なホテルで、観光スポットになっている」
ビバリーウィルシャー・ホテルは、1928年に創業。ハリウッドエリアにあり、セレブ御用達の超高級ホテルである。エリザベス・テイラー、エルビス・プレスリー、エルトン・ジョン、ロックフェラー一族らが定宿にしていたことでも知られている。
「その頃はまだ外で煙草を吸ってもよかったんですね。それで僕は、映画に出てくるような綺麗なウェートレスに『アス・トレー、プリーズ』と頼んだら、彼女が驚いた様子で、『ワ、ワ、ワッ?』って聞き返してきたの。高級ホテルだから、僕はちょっと気取って『アス・トレー、プリーズ』と言ったのに、通じてなかった。そしたら、ジェリーが『それは灰皿ではなくて、尻皿だよ』って。灰はアッシュ、アスはお尻のことだけど、僕が気取って発音したら、アッシュじゃなくて、アスになっていた。ウェートレスは僕に、『尻皿を下さい』と言われて、どうしたらいいか分からなかったのね。これは、かなり恥ずかしかった」
水谷が英語の勉強を続けていた頃のエピソードである。
※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。