NHK大河ドラマの見せ場で“最大級の歴史の歪曲”…「築山殿の死」に無理がある3つの点

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家康と瀬名の夫婦仲は断絶していた

 もう少し詳しく見ていこう。最初に、夫婦は不仲だったという点から。

 築山殿は今川家の御一家衆、関口氏純の娘なので、家康が織田信長と同盟を結んで今川家と敵対した時点で、二人の関係は悪化したという見方は根強い。事実、この夫婦のあいだには永禄2年(1559)に生まれた信康と、同3年(1560)に生まれた亀姫の二人の子供がいたが、家康が今川家と敵対した同4年(1561)以降は、一人も産まれていないのだ。

 もっとも、それだけで夫婦が不仲だったと断定することはできないが、家康が元亀元年(1570)、居城を岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)に移した際、築山殿は岡崎にとどまり、以後、二人は二度と同居していない。

 その後、天正三年(1575)に発覚した、武田勝頼を岡崎城に迎え入れようとした「岡崎クーデター」こと大岡弥四郎事件で、築山殿は主導的な役割を果たしたと見られている。これに関して、『どうする家康』の時代考証を担当する平山優氏も「このクーデター計画は発覚し、一味は逃亡した一人を除き根絶やしにされたが、築山殿だけは家康正室でもあり命を許されたのだろう」と記し、続いて「恐らく、これが契機で、家康との夫婦仲は断絶したとみられる」と書いている(『徳川家康と武田勝頼 』幻冬舎新書)。

 加えていえば、築山殿は『岡崎東泉記』などによれば、出身である関口家の主家である今川義元を討った織田信長の長女だという理由で、信康の嫁の五徳ともずっと不仲だったとされる。

家康は謀反を繰り返す妻を放置できなかった

 では、築山殿はどうして武田家と内通したのか。当時の徳川家は武田信玄、その死後は勝頼の攻勢の前にずっと劣勢で、領土は次第に侵食され、このままでは滅亡してもおかしくなかった。そんななかで息子の信康を守るためには、武田に近づくしかないと考えた――。それが多くの研究者の見解である。付記すれば、徳川家の家臣団自体が、対武田主戦派と武田家と接触しようとする側に分かれた、と考えられる。

 だが、武田に近づけば織田を敵に回しかねなかった。また、敵対する勢力との国境付近では、国衆たちはより力がある側にすぐに寝返ったから、気を抜くことは許されなかった。「奪い合うのではなく与え合う」などと夢物語を語った瞬間に、国を守れなくなるのがこの時代だった。

 ところが、そんなことは百も承知のはずの家康がドラマでは、瀬名に「私たちはなぜ戦をするのでありましょう」と問われ、「わしは生まれたときからこの世は戦だらけじゃ。考えたこともない」と答えたのだ。その時点で『どうする家康』は、戦国時代を描いた歴史ドラマではない。

 さて、築山殿の武田方への内通は、五徳からの書状で信長に知られてしまった。これについて、築山殿がすべての責任を負うために、不仲であった五徳に父への手紙を書かせた、という展開にはかなりの無理があるが、ともかく、追い詰められつつあった築山殿は、どういう行動をとったか。

 徳川家の家臣、松平家忠が記した『家忠日記』には、築山殿が命を断つ1年半前の天正6年(1578)年2月4日の条に、築山殿から便りがあった旨が書かれている。大名の妻が家臣に手紙を出すなど、当時の社会通念からすると異例中の異例である。また、2月11日には信康が家忠を訪ねている。

 武田家への内通がバレて処分されかねないことを恐れた築山殿と信康が、家臣への多数派工作を試みたのだ、と解釈する研究者が多い。本多隆成 氏は「築山殿は弥四郎事件の際には罪を免れたものの、再度の謀反の疑いで、女性でありながら生害を免れなかったのであろう」と書く(『徳川家康の決断』中公新書)。むろん、家康の判断である。

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