NHK大河ドラマの見せ場で“最大級の歴史の歪曲”…「築山殿の死」に無理がある3つの点
「これ以上の悲劇はない」「つらすぎる」といった書き込みがネット上にあふれた。NHK大河ドラマ『どうする家康』の第25話「はるかに遠い夢」。そのラストシーンでは、有村架純演じる家康の正室、築山殿(ドラマでは瀬名)が、家康の目の前で自刃したのである。
ときは天正7年(1579)8月29日。大河ドラマ中盤における最大の見せ場は、実際、見ていてつらい場面だった。しかし、「本当にこんなことがあったのか」と問われれば、「歴史的にはありえなかった」と答えるほかない。それほど史実とはかけ離れた場面だった。
この場面にいたるまでドラマの筋を追うと――。
家康の説得も虚しく自害――という展開だが
瀬名が住まう岡崎城下(愛知県岡崎市)の築山に、武田勝頼の重臣の穴山信君(田辺誠一)のほか、今川氏真(道端淳平)をはじめ多くの要人が出入りしていた。彼らは徳川と武田、北条などがたがいに不足するものを補い合って「慈愛の国」を作る、という築山殿と嫡男の信康(細田佳央太)の構想に同調する人々だった。
宿敵である武田方が出入りしている、という状況は放置できず、家康や重臣たちが築山に踏み込むが、彼らまでが瀬名の構想に同調してしまった。
だが、結局は、徳川と織田のあいだを割きたい武田勝頼が、瀬名らが武田に内通しているという噂を流し、それは織田信長(岡田准一)の知るところになる。
信長は家康に「お前が自分で決めろ」というが、重臣の佐久間信盛(立川談春)が「なにをなさらねばならぬかわかっておられるでしょうな」と補う。要は家康に、妻子の命を奪うように圧力をかけたのだ。それを受けて家康は、信長をあざむく決意をする。すなわち、瀬名と信康それぞれに身代わりを立て、本人たちは逃がそうと考えたのだ。
しかし、家康の妻子は生きながらえるのをよしとしなかった。瀬名は、信康の正室で信長の長女である五徳(久保史緒里)に、瀬名と信康の悪行を書き連ねた手紙を送るよう に指示し、自分が悪役になってすべての責任を負おうとする。
信康は止める家臣を振り切って自刃。続いて、その半月ほど前の場面が描かれた。家康は瀬名が送られた佐鳴湖畔(静岡県浜松市)に出向き、「生きてくれ」と説得するが、彼女は受け入れない。家康が「世間はそなたを悪辣な妻と語り継ぐことになるぞ」と言っても、「平気です。ほんとうの私はあなたの心におります」と答える。
家康は仕方なく、本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)に連れられて戻っていくが、やはり耐えられずに引き返す。だが、家康が見ている前で、瀬名は短刀でみずからの首をかき切り、大鼠(松本まりか)が介錯する。
史実を無視した三つの点
戦国大名の妻と嫡男がともに死に追いやられるという、当時としてもあまりに異常な事件について、同時代の史料はほとんど残されていない。徳川家の黒歴史だから、ストレートに語り継ぐことがはばかられたのだと思われるが、関連史料や状況証拠から、一定の推測をすることはできる。
そうした推測の結果、まちがいないと考えられる事柄と照らして、『どうする家康』の筋書きのどこに無理があるかだが、主に以下の3点を指摘できる。
ひとつは、築山殿と家康は不仲だったと考えられる点である。それに関しては、ほとんどの研究者の見解が一致しているのに、大河ドラマでは二人が最後まで仲睦まじく、別居しても頻繁に行き来があったように描かれていた。
二つめは、戦国時代の常識を無視していること。築山殿は、大名たちが「奪い合うのではなく与え合う」という「慈愛の国」をつくれば戦争がなくなる、と訴えたが、弱みを見せたらすぐにつけ込まれるあの時代に、そんな妄想が通用するはずがない。
三つめは、妻子を処罰するという判断は、信長から圧力をかけられたせいではなく、家康が自分で判断したと思われる点である。自身の決断であるなら、替え玉を殺してほんとうの妻子は逃がそうとしたり、みずから築山殿に生きるように説得しにいったりするとは考えられない。
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