【ポール牧の生き方】なぜ白いブレザーに黒のズボンに着替えて死を選んだのか
「悲しいときは泣くんじゃない。我慢して笑うんだ」
「僕の(お笑いの)原点は母です」と話していたポールさん。
母きちさんは山形の米沢生まれ。16歳のとき脊椎の病気を患った。不自由になった片方の足を支えるため、両手を広げてバランスをとりながら歩いたという。
若くして夫と死別。生まれたばかりの赤ちゃん(のちのポールさん)を抱え、親類を頼って北海道に渡る途中、青函連絡船の中で赤ん坊が泣き出した。お乳が出ず、途方に暮れていたとき、僧侶が近づき「どれどれ」と赤ん坊を抱くと、ぴたりと泣きやんだという。
その僧侶が、のちにポールさんの父となる。布教のため天塩に向かう途中だった。
当時、きちさんは26歳。僧侶は66歳。40歳の年齢差があったものの2人は結婚。だが生活は貧しかった。檀家は少なく、寺の収入だけでは食べていけない。敷地の一部を畑にして野菜を作った。
冬は底冷えする。ポールさんは1枚の布団に、きちさんと幼い妹2人と足を突っ込んで寝た。1個の生卵を分け合い、ご飯に醤油をかけて食べた。真冬でも吹雪の中、母と一緒に1軒ずつ檀家を目指して歩いた。烈風が吹くと泣く妹たち。「泣くな」と叱りながらも、自分も情けなくなり、涙が溢れた。10円のお布施を握りしめ家に帰ったという。
「悲しいときは泣くんじゃない。我慢して笑うんだ」
口癖のように言っていたのが母だった。わざとズデンと雪道で転んで家族みんなを笑わせたという。
母はポールさんが上京後も、毎月、手紙を送った。封筒には千円札。
「このセンエンがありがたいとおもうなら、すべてのヒトにやさしくしてあげなさい」
と書かれていた。母は1967年、53歳で亡くなった。
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