【ポール牧の生き方】なぜ白いブレザーに黒のズボンに着替えて死を選んだのか
携帯電話の連絡先はすべて消されていた
悲報から数日後、ポールさんが暮らしていた西新宿のマンションに遺族と一緒に入ることができた。
1LDKの部屋。奥にベッドがあった。枕元には母親の写真が飾ってあり、仕事で持ち歩いていた愛用のカバンも置いてあった。遺族によると、携帯電話からは連絡先がすべて消されていたという。
部屋の中には妙な生々しさが残っていた。つい先ほどまでポールさんがいたような感じ。窓を開けてベランダにも出た。そこには台が置いてあった。何だか見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさに見舞われた。
きっとポールさんはそこに乗り、手すりを乗り越えて飛び降りたのだろう。現場はマンションの9階。結構な高さである。
「独りって寂しいね」
最近の若い人は知らないかもしれないが、ポールさんは全身でリズムをとりながら指を鳴らす「指パッチン」で人気者になった、いわゆる昭和の芸人である。「悲しみに沈む人を元気にしたい」というのが芸人になった理由だった。
1996年、兄の死をきっかけに仏門に入る。僧侶だった兄の師匠が住職を務めていた静岡県袋井市の「可睡斎」で修行。2002年には茨城県鹿嶋市に自分の寺を持った。名前は「一道寺」。落慶法要のとき、境内に迷い込んだ野良犬を「ゲスト」と命名し、世話をした。「捨てられた犬を拾うと幸せになれる」と説法で話していたという。「指紋がなくなるまで指パッチンをやる」と豪語していたが、私生活では4回の結婚と離婚。芸にも行き詰まり、とうとう独り暮らしとなる。うつ病を理由に、所属していた事務所をやめたこともあった。人前ではいつもテンションが高く、そう状態だったが、ギャップが相当、激しかった。
ポールさんの死から1年後。私は朝日新聞の東京社会部から稚内支局に異動になった。まさに日本最北の極寒の地。宗谷海峡の向こうはロシア・サハリンである。
肩書は「朝日新聞稚内支局長」。と言っても、支局(自宅を兼務)に勤務しているのは私ひとりだけ。ただ本社とは違い、つまらぬ人間関係に振り回されることもなく、まさに「北の大地」を自分の車で走り回った。
その広大な管内に、ポールさんの生家があった。稚内市から約100キロ離れた天塩町。雄大な天塩川が日本海に流れ込む。向こうにはうっすらと利尻の島影が見えた。
きっとポールさんの子どものころや家族のことを知っている人がいるにちがいない。そう思って訪ねたところ、ガソリンスタンドを営む幼なじみのA氏に会うことができた。
「たしかに、ポールさんが亡くなる2カ月ほど前、稚内空港まで迎えに行きました」
A氏はそう言う。ポールさんは実家の墓参りに訪れたらしい。
素顔がかすかに見えてきた。空港から町までの車の中、窓から雪景色を見つつポールさんは「独りって寂しいね」と突然、ぽつりとつぶやいたという。生家では義理の兄 とも久しぶりに会ったそうである。
「仕事の悩みがあったのかなあ」
と友人たちは語った。自殺したのは、この里帰りの2カ月後だった。
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