横尾忠則が明かす「デザインを捨てて絵画を選んだ瞬間」 ピカソ展の会場で落雷のような衝撃が
20歳の頃、結婚を前提で同棲中、彼女と神戸の三宮のガード下を歩いていたら、占い師に店の中から声を掛けられ、思わずふらふらと店内に入ると、僕の顔を見るなり、「声は聴こえど姿は見えず」と言われた。どうやら水商売の遊び人に見えたらしいのです。元々、占いにはそれほど興味がありません。
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1960年に上京したが、なんとなく頭の隅で、占い師が言う姿のない鳥が鳴いているような気がしてならなかったのです。上京間もなく、大阪から移転した広告会社を2ケ月で止めて、声は掛けられていたけれど、実態のないまま、架空の職場のことを考えていた時、あの占い師の「声は聴こえど姿は見えず」の心境は当っているように思え、この先きを占ってもらっていなかったので、何んとも不透明な気分が続いていました。そして、半年後に新しい職場が決まって、やっと声だけでなく姿が見えてきて、占いもまんざらではないなと思うようになりました。
それから15年ほど経った頃、京都と奈良と東京に住む3人の素人占い師が頼みもしないのに、僕に無断で僕の寿命を鑑定したのです。この3人の素人占い師はお互いに関係のない人達で、よりによって、ほぼ同時期に何んとも悪趣味な情報を僕に伝えてきたのです。
その3人が口を揃えていうには僕の寿命は50歳で終るというのです。その時、僕は30代の中頃だったので、すると僕の寿命はあと15、6年しかない。この頃の僕は寺山修司や唐十郎や土方巽と交流があって、それぞれの劇団のポスターを作り、その仕事が世間に評価され始め、海外の美術館での個展の話も舞い込み、わが世の春に浮かれている絶頂期だったですが、この幸運もあと、十数年で終るのかと思うと、強烈な死の恐怖に襲われ始めました。
何をしても自分のデッドラインが頭にちらついて、死の呪縛から解放されない。毎日が死との対峙で、この恐怖感は家族にも友人にも話せないまま、終末時計の刻む音に追い掛けられている毎日でした。そして僕の生活と創作は死を前提にして、読む本は『チベットの死者の書』やスウェーデンボルグの『霊界探訪記』や、ルドルフ・シュタイナーの『神智学』といった本ばかりで、自分の存在を現世から死の世界に移して、すでに自分を死んだ存在として現世を白々と見る何んともいえない虚脱感に襲われていました。
が、僕が45歳になって、あと残こされた寿命は5年か、と思っていた頃、多摩大学の野田一夫学長に誘われて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の今世紀最大のピカソ展を観に行くことになったのです。かつて僕の個展が開催されたこのニューヨーク近代美術館でのピカソ展だけに、ピカソとの不思議な親和性に嬉々としながら人生最後の現世の大旅行になるだろう。だけど僕の天性であるグラフィックデザインの総括のチャンスだと思ってニューヨークを目に焼きつけておこうと──。ピカソも見納めになるだろうなあと思って、ニューヨークへ行くことにしたのです。ところがこのピカソ展の会場で、まさかの僕の運命の大転換が起りました。全く想像もしていなかったことに遭遇してしまうのです。
ピカソ展を観ている最中に僕は落雷のような衝撃に撃たれて、その場でいきなり、別次元に運ばれてしまったのです。どういうことかと言うと、「デザインは終った! 次は絵画だ!」という何んとも理不尽な声なき声の啓示によって、一瞬にして、僕の中からグラフィックデザインが追放されてしまったのです。デザインは終った! 次は絵画だ! と天啓のようなというか悪魔の声とでもいうか。その瞬間僕は完全に何かの力によって洗脳されてしまったのです。
天性だと思っていたデザインが身体の中から追放されて、それに代って絵画が僕の肉体を占拠してしまったのです。そして、その日以来絵画に没頭するようになりました。そして「ハッ」と気がついたら、僕の50歳のはずの寿命をいつの間にか通過してしまっていたのです。頭の中にあったはずの50歳という寿命のことは超克されてしまっていたというわけです。つまり、残り5年だったはずの寿命のことなど念頭からすっかり消えてしまっていたのです。
こうしてデザインが追放され、それにとって代った絵画によって、寿命が今日の87歳まで延命されたというわけです。たった一瞬の劇的な衝撃によってデザインから絵画に輪廻転生させられることで、僕は自分の与えられた宿命をどうやら転換してしまったらしいのです。そして60年後にやっとあの神戸の占い師の鳥が姿を現したというわけです。これが僕のいわゆる画家宣言だったのです。