リクルート事件、“贈り主”の企業側で何が起こっていたのか 現代の危機管理にも通じる新事実の数々とは
「松原事件」
しかし、この貪欲なまでの情報収集の姿勢は、未公開株事件においては裏目に出続ける。
リクルート事件では、未公開株の譲渡ルートとして「政界ルート」や「NTTルート」の他に「文部省ルート」「労働省ルート」が報道されていた。
「当時のリクルートの事業の2本柱は就職情報誌と住宅情報誌。当然ながら、両誌への規制はリクルートにとって死活問題となりますが、当時、労働省は情報誌の規制を検討しており、文部省は大学などに対して学生の住所を民間企業に提供するのを規制する動きを見せていました。その情報を水面下で得た江副氏は、文教族の森喜朗元文部大臣や文部省の高石邦男事務次官に近付き、労働族の山口敏夫元労働大臣や加藤孝労働事務次官にすり寄ったのです」(同)
譲渡が文部省や労働省、その族議員にとどまらず政界の広範囲に及んだのは、事業の多角化にも連動しているという。
「鉄道の新駅や高速道路の新設など、不動産の売買に有益な情報を得るために政治家とパイプを築き、彼らの地元の情報をいち早く仕入れておく必要があった。ここにも未公開株事件の広がりを止められなかった淵源があるのです」(同)
さらに、事件が露見した後も、リクルートは「情報」でつまずき続けることになる。
朝日新聞によるスクープで未公開株譲渡が明るみに出た当初、東京地検も立件には後ろ向きだったとされる。それが一転、強制捜査へと舵が切られることになったきっかけは、コスモス社社長室長の松原弘氏が起こした通称「松原事件」であった。
金銭の入った紙袋を渡そうとする様子を盗撮
88年9月、疑惑を調査していた社会民主連合の楢崎弥之助衆院議員が、コスモス社の社長室長から“調査をやめてほしい”と賄賂の提供を持ち掛けられたことを会見で告発。“国会の爆弾男”の異名をとる男の導火線に火が付いた瞬間だった。さらに、日本テレビのカメラクルーが、松原氏が楢崎議員に金銭の入った紙袋を強引に渡そうとする様子を隠し撮りし、その映像が会見の日の夜、全国ニュースで放送されてしまったのだ。
当時、リクルート社の広報部に在籍していた人物によれば、「松原事件」では二重三重にボタンの掛け違いが起きていたという。
「当時のリクルートにはマスコミ対応をする広報部とは別に“裏広報”と呼ばれる、ディフェンス広報を担当する業務部という意味不明な部署がありました。松原事件の直前、この業務部からコスモス社に“楢崎議員が未公開株の譲渡先名簿を手に入れるため、会社を訪問する”という情報がもたらされていたのです」
もっとも、業務部がコスモス社に伝えたかったのは“楢崎の懐柔”ではなかった。
「あくまで、楢崎議員が本社を訪れるが“特に情報は持っていないから気にしなくてもよい”。つまり、余計なことはせず大人しくしておけという連絡だった。ところが、この情報にコスモス社は過剰反応。譲渡先名簿は江副氏がかたくなに開示を拒んでいた書類でもあり、金銭を提供してでも事態を収めなくてはならないと勘違いをしてしまったのです」(同)
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