リクルート事件、“贈り主”の企業側で何が起こっていたのか 現代の危機管理にも通じる新事実の数々とは

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なぜ旧来の業種に進出?

 では、なぜ江副氏はベンチャー精神を捨てて旧来の業種に進出したのか。

 そのカギを握るのが、リクルートの成長鈍化。つまり、「金」詰まりだという。

 リクルート社の経理部門にいたある社員によれば、

「リクルートが急成長しているうちは金融機関も安い金利でお金をじゃぶじゃぶ融資してくれていました。ところが、ひとたび成長が鈍化すると貸し渋りや金利の上昇が始まります。リクルートは借入金が多かったため、江副さんはとにかくこの貸し渋りや金利の上昇を恐れていた」

 リクルートは80年代に売り上げ2千億円を達成。ところが80年代も半ばに差し掛かると、江副氏は創業以来の“闘志”とは裏腹に、成長し続けなければならない重圧に苦しむようになっていく。

「それまでのリクルートは2桁成長も当たり前で、同じペースで成長を続けるためには、年間売り上げが200億円を超す情報誌を毎年のように成功させなければならない。そんなもの土台無理な話ですから、結局、一気に売り上げや利益を伸ばせる不動産事業やファイナンス事業、あるいは通信(回線リセール)といった既存の事業に依存せざるを得なくなっていったのです」(同)

“情報で成功し、情報でつまずいた”

 江副氏が未公開株を配っていたとされる80年代半ば以降、リクルートは不動産業やスーパーコンピューターの時間貸し事業に積極的に進出。情報誌という「ソフト」を売るビジネスから、「ハード」を売るビジネスへの転換は、新事業のためにより潤沢な資金が必要になるという悪循環も生むことになった。本誌(「週刊新潮」)が入手した内部資料によれば、94年3月末時点のリクルートグループ全体の借入残高は1兆8千億円以上にまで膨れ上がっていた。先述の創業25周年記念誌で、〈借入金が会社をよくする〉〈大きな借入金がトップマネジメントの緊張感を高める〉とうそぶいていた江副氏だが、この頃には成長維持への強迫観念と金利上昇の圧迫感にさぞ苦悶していたことだろう。

 未公開株の譲渡という汚職事件を引き起こす素地となったリクルートの「人」、「物」、「金」。ところがリクルートがそこからスキャンダルの底なし沼にはまり込んだ原因を読み解くためには、さらに「情報」という要素を付け加える必要がある。

 先の元幹部はこう述懐する。

「リクルートの祖業は情報誌。そういう意味では、あの会社は“情報で成功し、情報でつまずいた”のです」

 だが、リクルートが情報を軽視していたわけでは決してない。この元幹部によれば、むしろリクルートはどんな会社よりも情報を大切にしてきたという。

「それは、社内の情報共有体制を見ても明らかです。なにせ、社内報だけでも『週刊リクルート』、『月刊かもめ』、ビデオ社内報の『リクルートNOW』、そして管理職向けの『週刊RMB』と、実に4種類。江副氏が提唱した“社員皆経営者主義”のスローガンのもと、全社員が経営の動きや課題を詳しく知り、組織や個人、成果にクローズアップする。これによって高いモチベーションを維持し、多角的に事業を展開できた面はあったと思います」(同)

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