リクルート事件、“贈り主”の企業側で何が起こっていたのか 現代の危機管理にも通じる新事実の数々とは

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東京地検特捜部に協力せず

 江副氏が政・官・財の各方面に未公開株を配り始めたのは84年12月~85年4月といわれる。折しもリクルートは創業25周年を迎え、飛ぶ鳥を落とす勢いで事業の拡大にまい進していた時期に重なる。

 リクルートが刊行した25周年記念誌には、

〈2位になることはわれわれにとっての死〉

 という江副氏の言葉が随所に登場する。

 祖業ともいえる求人情報誌事業でダイヤモンド社や新聞社系の情報誌と闘い、住宅情報誌において「読売住宅案内」と闘って勝ち残った歴史が勲章のように刻まれているのだ。

「江副さん以下リクルートの社員たちは、会社の事業だけでなく、未公開株事件も“闘う”対象と勘違いしてしまった。相手はマスコミだけではありません。事件の捜査に当たっていた東京地検特捜部に対してすら協力的な素振りは見せませんでしたから」(同)

元側近の分析

 実際、疑惑の端緒をスクープした朝日新聞社が事件の只中である89年9月に出版した『ドキュメント リクルート報道』には、こんな表現が登場する。

〈ベテラン検事にとっても、リクルートは、今までの捜査技法の通じない「新人類企業」だった〉

 先の元幹部によれば、

「リクルートに東京地検特捜部の強制捜査が初めて入ったのは88年10月。それまでも地検から役員や社員に任意の事情聴取が行われていましたが、中には“忙しい”などという理由で聴取を断ったり、聴取に応じても途中で“時間がきた”と帰ってしまうような人もいたんです。いくら“任意”とはいえ、こうも挑発的な態度をとられれば、特捜部が意地になるのは当たり前。当時の社内には現在の危機管理で常識になっている“ソフトランディング”なんて発想はみじんもありませんでした」

 一方、事件当時のリクルートが扱っていた「物」、つまり商品に変節を感じ取っていた社員もいる。

 江副氏の経営手腕を間近で見続けた元側近の一人は、事件をこう分析する。

「リクルートはあくまでベンチャー企業。“誰もやっていないことを事業化することによって先行者利益を狙う”というのが江副流でした。だからこそ、求人や進学に始まって、マイホーム購入や結婚という、それまで誰も目を付けてこなかった“人生の節目”を狙った情報誌を次々と誕生させ、成功させてきた。ところが、江副さんは次第に不動産とかファイナンスとか、旧来の事業にも触手を伸ばし始めるのです」

 不動産業界やファイナンス業界といえば大企業を頂点とした完璧な業界ピラミッドがすでに形成され、しがらみも多い。さらには行政の許認可がモノを言う世界であるため“お上の意向”に常に気を配る必要がある。結果として、政界や官界、財界の重鎮らとのリレーションが必要になり、未公開株の譲渡という禁断の果実に手を出してしまったわけだ。

「事件の発端となった川崎市の助役への株譲渡がまさにその好例。この助役はリクルートがビルの建設を決めていた『かわさきテクノピア構想』の中心人物であり、不動産の容積率や建ぺい率の緩和のキーマンでした」(同)

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