闇市、匂いガラス、虎ノ門で虫捕り… 1945年生まれの作家・松山巖が追憶する戦後の東京
虎ノ門は「バッタやトンボを捕る場所」
『乱歩と東京』で日本推理作家協会賞、その他の作品でサントリー学芸賞や読売文学賞など数多くの賞を受賞している、作家で評論家の松山巖さん。1945年、終戦のひと月前に生まれた彼が幼き日に見つめた、戦火をくぐり抜けた先の東京の風景とは。
***
速報羽生結弦との「105日離婚」から1年 元妻・末延麻裕子さんが胸中を告白 「大きな心を持って進んでいきたい」
私は1945年7月11日に生まれた。それから1カ月後の8月15日に、天皇は敗戦を宣言した。生まれたのは世田谷の経堂で、実は戦火を避け、母の妹夫婦の暮らす家で私は産湯をつかった。経堂が疎開先だったと説明すると驚く人は多いが、当時の世田谷は田畑が広がる土地だったらしい。
私は生まれるとすぐに、父のいた愛宕に戻った。「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」の歌詞で知られる愛宕だが、父はそこで石工として働いていた。
今では、愛宕というよりも虎ノ門といった方が分かり易いだろう。虎ノ門の交差点まで歩いて10分ほどである。現在は諸官庁が並ぶ霞が関が近接しているが、当時は大半の官庁が攻撃を受け、壊され、燃やされ、辺り一帯は原っぱだった。レンガ造りの文部省(現在の文部科学省)と、昔の警視庁だけが残り、小学生になった私には、バッタやトンボを捕る場所だった記憶しかない。
「匂いガラス」と闇市
家の近くにある2階以上のコンクリート造りの建物は、小さな銀行と私が通った小学校だけしか残っておらず、それだけに経堂は、妊婦には安心な所だったのだろう。経堂の記憶はないが、虎ノ門周辺には、戦後復興のための土管など大きな建材が積み上げられ、そこには家のない者が住んでいた。
特に思い出すのは“匂いガラス”。といってガラスではない破片で、透明で軽くて、路面などにこすると、甘い匂いがした。そこで匂いガラスと呼び、野原でよく見つけた。
実はそれは、飛行機の操縦席を守るプラスチック(正確にはアクリル樹脂)の覆いの破片だと教えてくれたのは、もう四半世紀も前に亡くなった須賀敦子さんだ。彼女は戦時中、学徒動員で工場に働き、実際にそのプラスチックの覆いを作っていたらしい。それほど戦争直後は、プラスチックが珍しかったのである。
今一つ記憶にあるのは、新橋の闇市と、銀座の露店。新橋の闇市は、各地で生まれた闇市と同じで、鍋や釜といった道具から食料まで、闇の値で売買していた。同時に売春婦も多かったようだ。しかし銀座の露店街は夕方になるとアセチレンランプをともして、なにやら祭りのような華やかさがあった。私はそこで母にオモチャの機関銃を買ってもらい、近所の子と遊んだ。
[1/2ページ]