石原伸晃元自民党幹事長の不出馬表明にブーイング 「やはり明智光秀は許されない」の声しきり
首相の座に手をかけていた
「首相を目指そうとする実力者が参院にいる場合、基本的には衆院に鞍替えします。林芳正外相しかり、世耕弘成自民党参院幹事長も鞍替えはまだ果たしていませんが、思いは同じ。石原氏の場合は逆で、衆院から参院ですから、首相を完全に諦めたということになりますね。そもそも現段階で彼自身、首相を目指す気などさらさらないでしょうが、今から11年前には首相の座に手をかけていたわけで、その意味で感慨深いですね」(同)
石原氏が首相候補とされていたのは、民主党政権末期のこと。政権交代の熱はすっかり冷め、民主党がぐらつく中、下野していた自民党は政権奪取に燃えていた。野田佳彦首相が「近いうちに解散」を示唆したことで、自民党総裁選への注目が一気に高まっていく。
「この時、結果的に、安倍晋三、石破茂、町村信孝、林芳正、そして石原伸晃の各氏が出馬しました。安倍、石破の両氏で決選投票となり、結果的に安倍氏が勝利するのですが、当初は安倍氏の当選どころか出馬自体、想定外でした。以前、政権を投げ出すように辞任したことが強く批判されていましたから」(同)
平成の明智光秀
当時、自民党の総裁だった谷垣禎一氏はもちろん再選を目指していたが、出身派閥・宏池会のボス・古賀誠氏の支援を取り付けられず、さらに悪いことに幹事長だった石原氏が出馬を表明したために、出馬辞退を余儀なくされてしまう。結果、この時の石原氏の行動は「裏切り」だと評されることになる。
「石原氏としては早く名乗りをあげなければと焦っていたように記憶しています。党内で影響力のある森喜朗元首相や青木幹雄元官房長官の支援は得たものの、そもそも可愛がってきた子分はあまりいないし、地方での人気もイマイチ。早めに動かねばということで出馬を宣言してしまったのでしょうが、それで谷垣氏が出馬できなくなってしまった。永田町というところは今もなおムラ的なところで、当時はもっとそういう傾向が強かった。丁寧に誠意をこめて説明を重ねて段階を経ていれば問題なかったはずですが、そういうこともしなかったので、総裁を裏切った幹事長だと見る向きは多かった。そのため“平成の明智光秀”などと言われるようになって、彼の勢いは一気に失速していきました」(同)
一時は総裁間違いなしと見るムキもあった中、決選投票にも残ることができなかったので惨敗といってよい結果だった。これは石原氏にとって大いにショックだったことだろう。
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