「中野サンプラザ」本日閉館 50年前、オープニング記念公演に行った男性の証言「あれほど驚いた演奏会はありません」

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歴史的ロック・オペラの初演

 その後10日間ほどは、フォーク・コンサートが日替わりでつづいた。ビリー・バンバン、森山良子、本田路津子……。中野出身で、森重さんの中学の大先輩、五輪真弓のコンサートもあった(彼女の実家は、中野新橋の「いつわ書店」)。

 そして6月19日(金)~7月6日(金)、いよいよ正式な杮落とし、いわゆるオープニング記念公演となる。それが、ロック・オペラ「イエス・キリスト・スーパースター」日本初演だった(「ジーザス・クライスト・スーパースター」の当時の邦題。以下「JCS」と略す)。日本ゼネラルアーツ(浅利慶太(2018年没)が設立した舞台製作会社)と、劇団四季との提携公演だった。

「商店街のあちこちにポスターが貼られていました。演奏は若杉弘指揮/東京交響楽団、二期会のオペラ歌手、島田祐子も出演するらしい。サンプラザはN響ではじまり、今度は東京交響楽団。しかもロック“オペラ”。これでてっきり、クラシック中心のホールになるようなイメージを持ってしまったんです」

 当時、若杉弘(2009年没)は若手のホープで、読売日本交響楽団の常任指揮者だった。

 さっそく森重さんは、この「JCS」公演に行った。チケットはC席1500円~S席3000円だった。当時、映画ロードショーの料金が550円だったので、これをもとに比較すると、現在だとC席5000円~S席10000円前後か。もちろん森重さんはC席で、2階後方だったという。

「私も、その後、いろんな舞台や演奏会を観てきましたが、これほど驚いたものはありません。とんでもないものを見せられたと思いました。正直なところ、何が何だかわからなかったのです。キリストの最後を激しいロック音楽で描いているのですが、こっちは中3のガキで、こういうモノを見慣れていない。また、クリスチャンでもないから、キリストの生涯なんて全然知りません」

 だが、舞台上のヴィジュアルは強烈だった。

「男性は上半身裸で白いジーンズ姿、歌舞伎のような隈取りメイクをしていました。舞台上には急斜面の台座みたいなものがあるだけで、壁などはほとんどがむき出し。若杉弘と東京交響楽団がどこにいるのかも、よくわかりませんでした。群衆が大八車を動かしながら踊っている。当時はワイヤレス・マイクなんてなかったから、役者はコード付きのマイクで歌っていました」

 どうやら、あまりに最先端で、中3の少年には刺激が強すぎたようだ。

「でも、ラストでキリストがムチで打たれ、磔(はりつけ)になる哀れさだけは、もう勘弁してくれといいたくなるほど強く伝わってきました。こんな舞台を、家から見えるあの建物内で毎晩やっているのかと思うと、いまでいうトラウマ寸前でした」

 この初演について、美術監督の金森馨(1980年没)が、「話の特集」1973年9月号に、メイキング・レポート「大八車のイエス・キリスト」を寄稿している。それによれば、サンプラザのステージは“破壊”寸前だったようだ。

「中野サンプラザ・ホールは(略)劇場ではない。多目的のコンサート・ホールであり若者向けの集会場である。どんな所であれ、新しい場所というものはそれ自体、興味をそそるものだ。それがもし素材として有能であるとすれば、こんなに願ったりかなったりの事はない」

 そこで、舞台上に「6畳間一部屋位の大きさの大八車」を「3台」登場させることになった。ところが、

「前後左右に可動出来、なおかつ傾斜の機能を持ち、斜面を固定出来、10数名の演技 者が乗って踊るには、かなりの鉄骨でつくらなければならず、その全体の重量たるや、サンプラザ・ホールの床を破壊してしまうという」

 仕方ないので、寸法を小さくして3台を5台にし、車輪のほかにキャスターを付けるなどして、なんとか床の破壊は免れた。そのほか、天井の球体スピーカーや、照明器具、ステージの壁など、ほとんどそのまま生かすことになった。

「オーケストラはメインステージの下、つまり舞台におおいかぶされた地下である。(略)殆ど、ホールの素材をそのまま使用し、出来るだけ装飾性のないものとした。出来るだけナマな空間がこの作品の体質にマッチすると考えたからである」

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