【どうする家康】設楽原の戦いでは「ブラウスにベスト姿」の家康 ヨーロッパかぶれには意外な狙いも

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大河ドラマにお目見えした安土城天主

 ところで、『どうする家康』の第24話、「築山へ集え!」では、安土城の五重の天主がCGで映し出されたが、これも当時としては、きわめて奇抜な建築だった。日本の建築史上、仏塔を除けば4階建て、5階建ての建築は、それまでほとんど例がなかった(仏塔は五重塔であっても各重に床がなかったから、実質1階建てだった)。

 そこに信長は、突然、居住が可能な五重で7階建ての天主を建てた。この前例がなかった建築について、フロイスは『日本史』にこう記している。

「我らのヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋め尽くしている」

「外部では、これら(七層の)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本でもちいられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている」

「この天守(天主)は、他のすべての邸宅と同様に、われらがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦には金色の丸い取り付け頭がある」

ヨーロッパかぶれの「ねらい」

 その後、日本中の城に建てられた天守という高層建築のはしりが、安土城天主だったのだが、はたしてそれは信長の独創だったのだろうか。

 信長はいつも宣教師を質問攻めにし、ヨーロッパの文物から城や建築についても、執拗に尋ねてきた。また、宣教師と対面するたびに、日本の建築をヨーロッパのそれとくらべたがった。そうである以上、宣教師たちが語るヨーロッパの建築に信長が思いをめぐらせ、イメージを喚起され、それを日本で具現化しようとした、と考えるほうが自然だろう。

 信長は馬揃えのときに、ヨーロッパ風の帽子をかぶり、巡察師から贈られた豪奢な椅子に座り、イエズス会の巡察師をとおして、みずからの威容を世界に示そうとした。同様に、ヨーロッパでも通用する建築を出現させ、自身が日本の「国王」として君臨していることを、宣教師をとおして世界に伝えようとしたのではないだろうか。

 付記するなら、そんな信長が本能寺に斃れることがなければ、日本文化のありようはかなり変わっていたかもしれない――。歴史に「if」はないというものの、ついそんな妄想をしてしまうのである。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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