【どうする家康】設楽原の戦いでは「ブラウスにベスト姿」の家康 ヨーロッパかぶれには意外な狙いも

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ヨーロッパに自らの威容を知らせるため

 信長のヨーロッパ趣味がもっとも顕著に打ち出されたのは、本能寺の変の前年である天正9年(1581)2月28日、京都で開催した大規模な馬揃えだった。フロイスの『日本史』によれば、競技への参加者は13万人を超え、20万人の観衆が集まったという。

 武将たちは信長から、可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。このため、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架を首にかけ、ヨーロッパ風のマントを羽織り、十字架模様の馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤な旗、といういでたちで競い合った。

 信長自身はといえば、紅梅に白の模様の華麗な小袖を着て、金紗という唐織物で仕立てられた上着を羽織り、後ろに花を挿した帽子をかぶって、黄金の飾りがほどこされた真っ赤な椅子に座った。

 この椅子は、イエズス会東インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノから贈られたものだった。東インド管区巡察師とは、ローマのイエズス会総会長から直接任命された、インドおよびアジアとの布教を統括する責任者。背後にローマ教皇やスペインやポルトガルの王がいるという立場である。

 要するに、信長は花を挿した帽子をかぶってヨーロッパの豪奢な椅子に腰かけることで、自分が日本の統治者であることを世界に訴え、その威容を知らしめようとしたのである。

 そうであるなら、『どうする家康』で描かれたブラウスやベストといういでたちも、たんに新しいものが好きだったから着ていたのではなく、世界からの目を意識するがゆえだったのかもしれない。

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