瀕死の事故、同僚との確執から復活した、ツール・ド・フランス王者「レモン」の壮絶な半生(小林信也)
散弾銃で重傷
山口がいまも興奮気味に言う。
「最終日に50秒の差を大逆転してレモンが総合優勝した。それから30回近く行っていますが、あの興奮を超えるレースにはまだ出会っていません。それほど衝撃的な逆転劇でした」
89年は最終日に個人タイムトライアル(TT)が設定されていた。フランスの新たな英雄ローラン・フィニョンが50秒差でマイヨジョーヌ(総合トップ選手が着る黄色いジャージ)を守っていた。シャンゼリゼまでのわずか24.5キロの距離を考えたら逆転は難しい。誰もがフィニョンの優勝を疑わなかった。ところが、フランス革命から200周年の記念の年に、フランス人の夢は挑戦的なアメリカ人に砕かれた。逃した魚は大きい。実は85年のイノーを最後にフランス人の優勝はない。それは“レモンのたたり”と言えるかもしれない。
85年にイノーが優勝できたのは、同じチームにレモンがいたからだといわれる。チームの方針に従い、レモンはイノーのサポートに徹した。途中、レモンが優勝できそうな展開もあったが、「来年は王座を譲るから」というイノーの申し出もありレモンは自重した。ところが翌年イノーはレモンをアシストせず、自らリードを奪う走りを見せた。いざレースが始まると、「もう一度勝てば、史上最多6回もツールを制した男になれる」イノーの野望が大きくなったのだ。不意打ちを食らった格好のレモンは、序盤から逆転不能とも思われるリードを奪われる。それでもレモンは諦めず、激しい闘いの末に初優勝を飾った。
そのレモンの89年までの苦難にも触れる必要があるだろう。
86年に初めてツールの覇者となった翌年4月、レモンは狩猟中に同行者の散弾銃の弾を胸に受け、重傷を負った。生死の境をさまよい、連覇を期待されたツールは欠場。奇跡的に回復し、89年の5月、ジロ・デ・イタリアに出場する。だが、総合47位と惨敗。レモンの体にはまだ、心臓近くも含め37もの散弾片が残っていた。それでもツール・ド・フランスで奇跡の走りを演じたのだ。
フランスのトラウマに
50秒差の2位で最後の個人TTを走り始めたレモンの姿にフランス人たちは青ざめた。当時誰も使わなかった流線形ヘルメットを被り、サングラスをかけ、ドロップハンドルの先に突き出すDHバーを装着、その上に両腕を載せて極端な前傾姿勢で疾走した。トライアスロンではなじみのスタイルだが、自転車レースに持ち込んだのはその時のレモンが初めてだった。
フィニョンは前後輪にディスクホイールこそ着けていたが、トレードマークの金髪をなびかせて走る余裕のスタイルだった。最新鋭の装備で鬼気迫る走りを展開するレモンは、史上最速の平均時速54.545キロで走り切った。3分後にスタートしたフィニョンが3分50秒以内にゴールすれば王座を守れる。だが、フィニョンは8秒遅れてシャンゼリゼのゴールに入った。
「89年以来、フランス人にとって最終日の個人TTはトラウマなのです。でもそのトラウマに24年は向き合う決断がされました」
山口が教えてくれた。パリ五輪前の開催になる来年はシャンゼリゼを使えない。代わって最終日にニースで個人TTを行うと発表された。いまから胸が高鳴る。そして、その前に今年のツールが7月1日に開幕する。
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