中日・落合監督に「出した甲斐があった」と言われ…トレードで野球人生が変わった選手たち

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“1軍出場ゼロ”から正捕手に

 前球団では1軍出場ゼロだったのに、移籍先で正捕手になったのが、西山秀二である。

 南海時代の西山は、肘の故障などで1軍での出番がないまま、1987年5月、内野手を補強したいチーム事情から、高卒で入団後、わずか1年5ヵ月で広島に放出された。

 だが、その後の南海、ダイエーは、吉永幸一郎、城島健司と強力な正捕手が続いたことを考えると、このトレードは西山にとって大きなチャンスでもあった。

 当時の広島は達川光男が正捕手だったが、西山は91年に52試合に出場し、第2の捕手に成長。翌92年限りで達川が引退すると、左膝を痛めたライバル・瀬戸輝信の長期離脱も追い風となり、93年から正捕手の座を掴んだ。

 捕手・西山を一躍アピールする事件が起きたのは、同年6月6日のヤクルト戦だった。

 1点リードの7回、ハドラーの三ゴロで本塁を狙った三塁走者・池山隆寛にタッチした直後、体当たりされた西山は、約2メートル吹っ飛ばされたにもかかわらず、ボールを握って離さなかった。そして、起き上がるやいなや、ボールで池山の背中を殴りつけた。

 実は、西山は5月20日の同一カードでも本塁上で池山に押し倒され、後頭部を強打。意識を失っていた。「キャッチャーは相手チームになめられては終わり」と肝に銘じ、同じようなラフプレーを繰り返してきた相手に「なめるなよ!」と一矢報いた形だ。

 これがきっかけで乱闘に発展し、西山は暴力行為で退場になったが、以来、“気骨ある捕手”のイメージが定着したのも事実だった。1996年には打率.314を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞している。

 ちなみに広島は、1960年代の正捕手・田中尊も、南海時代は1年先輩の野村克也の陰に隠れて1軍出場ゼロだった。

 また、ヤクルト時代に古田敦也の控えだった野口寿浩も日本ハムで正捕手になり、西武時代に伊東勤の牙城に食い込めなかった大久保博元も巨人移籍後にブレイクしたのは、ご存じのとおり。

 トレード戦略において、絶対的な正捕手がいるチームの控え捕手は狙い目のようだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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