84歳で孤独死した日本初の風俗ライター・吉村平吉さん 思わず「良かったですね。まるで現代の荷風ですよ」と言った人生を辿る

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「苦界から区会へ」

 さて、へーさんの詳しい生い立ちについて触れよう。1920年、東京・赤坂生まれ。古美術品商で遊び人だった父の影響で子どもの頃から花柳界に親しんだ。

 早稲田大学専門部政経科を卒業後、「エノケン劇団」文芸部に作家見習いとして所属。劇場は毎日、立ち見が出るほどだった。

 転機は戦争だった。1942年に召集され、命からがら中国各地を転戦。戦後まもなく帰国し、夢だった劇団「空気座」を旗揚げした。田村泰次郎(1911~1983)の名作「肉体の門」を上演し話題を呼んだが、経営に行き詰まり1年で解散した。

 借金に苦しんだ末に「色の世界」にのめり込み、路上の客引き業になる。一晩で大卒の初任給くらい稼いだという。売春防止法が施行された1957年、警視庁による街頭一斉検挙があり、逮捕された。

 裏社会の探訪ルポを週刊誌に書き始めたのはその頃だ。「日本初の風俗ライター」と呼ばれ、最初の著書「実録・エロ事師たち」は映画になった。

 だが、身の程知らずと言うべきか、「苦界から区会へ」をキャッチフレーズに掲げ、1971年に地元の台東区議選に立候補した。

「われながらナンセンスな軽演劇的人生を送ってきたものだと思うが、その最も象徴的なハチャメチャなハイライト」

 選挙事務所は知人が経営しているゲイバー。夜10時からの開店なので、それまでの間、借りていたという。

「小さなことを決して忘れない区政を」

「ザックバランな話し合いが実行を生む」

 一応、選挙公約を掲げたが、「水商売は下町の命」となると有権者はどう受け止めるべきか迷ったに違いない。

 へーさんや回りの人たちからすると相当に盛り上がったのだが、開票結果はたった277票。これじゃあ、まるで泡沫候補である。

 驚くべきはその後、へーさんは3回続けて区議選(補選も含む)に立候補したことだった。だが、町内会費も払っていないという噂が流れ(当時は本当だった)、毎回、落選。

 ようやく目が覚めて、選挙をやめようと決意する。当時の心境をへーさんは「世の中の一般の堅気の人たちと、わたしたちのような無頼不逞の人間との間には、やはり越えられない壁があるらしい 」と著書「吉原酔狂ぐらし」に書いている。

 晩年のへーさんは、江戸期の吉原遊女たちが祀られる「投げ込み寺」とも呼ばれた浄閑寺(荒川区)を機会あるごとに訪ねた。住職が旧制中学の先輩ということもあり、「私が死んだら投げ込んでくれればいいなあ」と話していた。吉村家の墓は世田谷の豪徳寺にあるが、やはりいまでもへーさんの魂は浅草や吉原界隈をさまよっているような気がする。

 荷風のように日本の文壇史に名前を残す作家にはなれなかったが、荷風より5歳長生きした。しかも、病気らしい病気はほとんどしたことがなく、ポックリと逝った。見事な孤独死。たしかにナンセンスな軽演劇的人生ながらも、何ごとも飄々と楽しんだエンターティナ―でもあった。

「しょせん、アタシの人生そんなもの」

 へーさんの照れ笑いが脳裏に浮かぶ。

 さて次回は「指ハッチン」の喜劇役者・ポール牧(1941~2005)。63年の生涯は何だったのか。彼はなぜ西新宿の自宅マンションから飛び降り自殺したのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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