84歳で孤独死した日本初の風俗ライター・吉村平吉さん 思わず「良かったですね。まるで現代の荷風ですよ」と言った人生を辿る
「こんなに長生きするとは…」
酒場ではいつも穏やかな口調。刺し身など生ものは苦手。痛風になり、ビール党から焼酎に。時折、思い出したように遠くを見つつ、こんなことを言った。
「こんなに長生きするとは思いもしなかった。まさに道楽人生の生き残り。これから先は利息のようなもの」
「人間は、清濁併せ飲んでこそ人間。どこかいかがわしさを漂わせていないといけません。傷つかず、汚れもない男や女は、語るにたりません」
「昔は、吹き溜まりのような街が、どこにでもありました。カタギになれないハグレ鳥が、恥部を見せ合って生きているような感じでした」
それにしても本当にあちこちの店に行った。浅草・言問通りに面した「正直ビヤホール」、落語好きのマスターがいた吉原の「鈴音」、5個250円のシューマイが絶品だった和洋中華「丸八」、名物の煮込みをつまみにウーロンハイを飲んだ三ノ輪の「中ざと」……。
もっとも支払はいつも私だったが、へーさんの貴重な話を伺えるというだけで満足だった。正月元日には、吉原のへーさんのマンションを訪ねた。生活を応援してくれている人から送られたという豪華なおせちと、ブランデーが懐かしい。
酔うと、「エノケン」こと喜劇役者・榎本健一(1904~70)に憧れていた青年時代の話をした。滅びゆく遊び、雅やかな伝統。「ああ昔は良かった」式の回想でも、憤りでもなく、淡々と話す。
そういえば亡くなる7年前、浅草六区で300人近くを集め破天荒な生前葬が営まれた。ハワイアンバンドの演奏、流しの歌、女剣劇、マジックショー、ストリップショー……。
「死んだら誰も葬式などやってくれないだろうし、生きているうちならお金も多少集まるんじゃないのかな」
というのが生前葬の理由でもあった。。
「もうこのままお迎えが来たら最高です」とつぶやきながら、仙人のように達観した顔でグラスを飲み干す。まさに理想の「酔生夢死」。一度、一緒に福島にいる「へーさんの彼女」の家に行き、同じ部屋で寝たが、へーさんは寝息も立てずに、静かに眠っていた。
吉原にあったソープランドの従業員用のマンションに暮らしていたが、競売にかけられてしまい、2002年5月29日、隣町の竜泉に越した。掃除もしなかった部屋から雑誌や古本が運び出されたのを私はよく覚えている。
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