奈良地裁に山上被告の減刑嘆願署名を送った女性の告白 母親は「生長の家」の信者 性自認で葛藤した人生 「いきなり死刑が執行されれば彼は無念に違いない」
反憲学連
斉藤さんが記憶を遡っていくと、母親の信仰は幼稚園児の時の思い出に行き着くという。
「幼い頃の記憶なので正確ではないかもしれませんが、母が生長の家の施設に出向くのは、それほど頻繁ではなかったと思います。ある日、私を連れて施設に行った際、ある一室で待つように言われました。そこには複数の大人がいて、理由は覚えていないのですが、皇居に向かって万歳三唱をすることになりました。彼らが『天皇陛下万歳』と唱和したことは今でも鮮明に憶えています。私は万歳の動作がとても面白いと思い、喜んで真似をしていました」
後に斉藤さんは、この記憶を現役の信者に明かした。すると「反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)」の関係者が出入りする部屋だったのではないかと言われたという。
反憲学連は一時期、「反ソ連・反安保・憲法9条解体・民族自立闘争」を主張した大学生の団体として知られる。そして、生長の家における大学生信者を束ねる「生長の家学生会全国総連合(生学連)」とも密接な関係にあった。
だが、右派色の強い活動内容は教団内部からも疑問の声が上がり、80年代に生学連は教団主流派から実質的に“破門”。その後、生学連は反憲学連の関係者と共に日本最大の保守主義・ナショナリスト団体である「日本会議」の設立に深く関わったと主張する識者もいる。
「母の過干渉には悩まされました。信仰に根ざした右翼的な主張、夫である父が嫌いだという愚痴、そして私の祖母が祖父によるDV(家庭内暴力)を振るわれていた様子を何度も繰り返し話します。同じ話ばかり聞かされることに苦痛を感じて無視すると、『何よ、話くらい聞いてくれたっていいじゃない!』と怒り、また同じ話を始めます」
伝統的な女性観
成長するにつれ、母親に反論したこともある。すると母親は何日かかっても議論を続け、とにかく娘を“論破”しようとした。
「睡眠を取ったり、学校に登校したりして、議論が中断します。私が帰宅すると母はいきなり『あの問題はね』と議論を再開するのです。最終的に私をこてんぱんに言い負かすまで続けました。次第に面倒くさくなって、反論しなくなりました。すると自分と同じ考えを持っていると勝手に思い込み、それを前提にして話をします」
幼い頃はどうしても母親の影響を受けやすい。斉藤さんは小学生の頃、「日本には外国のスパイがたくさんいる」という母親の話を信じていた。さらに、旧ソ連と中国には強い恐れを抱き、「隕石が落下して国ごと壊れてしまえばいいのに」と考えることもあったという。
また斉藤さんは幼い頃から性自認で葛藤を覚え、幼稚園児の頃には「僕は男の子」と言い張り、男児用の服しか着なかった。それでも母親は斉藤さんに「女の人は女の人らしくしなければいけない」と言い続けた。
「母は、自分の父親が母親に暴力を振るうところを日常的に目撃していました。私の父である夫に対しても強い不満を持っていました。にもかかわらず、母はフェミニズム──当時はウーマンリブと呼ばれていましたが──には非常に批判的で、あからさまに馬鹿にしていました。そして、男尊女卑的な『女の子はこうあるべきだ』という考えを常に力説していました。幼い時からそれは本当に嫌で、あそこまで押し付けられなかったら、ひょっとすると『男になりたい』と願うことはなかったのかもしれません」
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