日本と朝鮮が交戦した「文禄・慶長の役」で、誰がすぐに逃亡して、誰が最後まで勇敢に戦ったのか?
明の征服を目指した豊臣秀吉が引き起こした「文禄・慶長の役」。破竹の勢いで朝鮮半島に侵攻する日本軍に対して、朝鮮側はどのように対応したのだろうか?
朝鮮史の研究者で、フェリス女学院大学教授の新城道彦さんの新著『朝鮮半島の歴史―政争と外患の六百年―』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けする。
***
1591年12月に秀吉は甥の秀次に関白を譲って「唐入り」に専念し、九州や四国の兵糧を肥前の名護屋周辺に集めるよう命じた。さらに、先の使節派遣で朝鮮の「服属」を信じていた秀吉は、渡海して協力を取り付けてくるよう小西行長と宗義智に指示している。
しかし、朝鮮には端から日本に味方するなどという考えはなかった。それゆえ、秀吉は約16万の兵を9軍に編制し、1592年4月に朝鮮への侵攻を開始する。いわゆる「文禄・慶長の役」である。
なお、韓国では長らく「壬辰(じんしん)倭乱」(2度に分ける場合は文禄の役を壬辰倭乱、慶長の役を丁酉〈ていゆう〉再乱)と呼称するのが一般的であったが、最近では日本・朝鮮・明の三カ国がかかわった国際戦争という意味を持たせるために「壬辰戦争」という用語を使っている。
まず小西行長と宗義智の第1軍が朝鮮に上陸し、4月13日(明暦では14日)に釜山城を取り囲んだ。早朝に攻撃を開始した日本の軍勢は、男女関係なく切り捨てる残虐な殲滅戦を展開し、早々に釜山城を陥落させている。
その後、第1軍は北進して東莱城を陥れ、慶尚道と忠清道の道境を越えて27日に忠州で三道都巡辺使の申リプ(シンリプ)が率いる朝鮮軍を破った。三道都巡辺使は慶尚・忠清・全羅三道の陸軍を統括する重職であり、緒戦における申リプの敗北は朝鮮社会に衝撃を与えることとなる。慶尚道の水域を守る慶尚左水使の朴泓(パクホン)は東莱の陥落後に水営(水軍の司令部)を棄てて逃亡し、慶尚右水使の元均(ウォンギュン)も逃げてしまった。それゆえ、この水域で組織的に抵抗する勢力は不在となり、後続の日本軍はやすやすと朝鮮半島に上陸していった。
加藤清正・鍋島直茂らの第2軍は4月17日に釜山に上陸し、慶州を経て忠州に至り、第1軍と合流した。両軍は29日に忠州を発って別々の進路で北上し、漢城を目指した。
漢城から逃亡した朝鮮国王
この間に漢城には申リプの敗報がもたらされていた。動揺する朝鮮の朝廷は、平壌退避と明に援軍を要請する方針を固め、万一の事態に備えて光海君を世子に冊立している。加えて、勤王兵(王を護衛する兵)を募集するために長男の臨海君を咸鏡道に、六男の順和君を江原道に向かわせることを決めた(『宣祖実録』)。
宣祖・王妃・王子らは29日(明暦では30日)の明け方に漢城を脱出した。宮廷を警備する兵は逃亡したり身を隠すという状態だったため、従う者は100名に満たなかったという。逃避行中には下人たちが食糧を奪い合ったので、国王の食事にさえ事欠くありさまとなった。
宣祖や政府高官が逃げ出した漢城では「乱民」が発生し、日本軍が到着する前に街は壊滅状態となった。まず狙われたのは掌隷院や刑曹である。これら官庁は奴婢の簿籍管理と訴訟を管轄していたので、賤民として虐げられた人々が身分などを抹消するために焼き討ちしたのだとみられている。ついで民衆は景福宮・昌慶宮・昌徳宮などの王宮に入って金銀財宝を奪っていった。
漢城以外の都市でも官僚や軍人は日本軍の接近を知るとわれ先に逃亡したため、支配機構がすぐに崩壊した。それにともなって朝鮮の民衆や兵が食糧を求めて暴徒化し、盗難が頻発した。混乱に乗じて奴婢が自身の所有者を殺害するという事件も起きている。
朝鮮は厳格な身分制のもとで一部の特権階級が多数の常民や賤民を虐げる社会であった。それゆえ、積もりに積もった民衆の怨嗟が、支配機構の崩壊とともに一気に噴出したのである。朝鮮各地を蹂躙した日本軍の侵攻がそのきっかけとなったのは皮肉といえよう。民衆のなかには日本軍が自分たちを「解放」する軍隊だと錯覚し、協力して戦利にあずかったり、日本側諸将の威光を盾に朝鮮の悪徳官吏を糾弾することもあった。
漢城が日本軍の手に落ちたのは5月3日である。小西行長らの軍勢は東大門から、加藤清正らの軍勢は南大門から入城した。都はすでに建物が焼失し、荒れ果てた状態であったという。漢城の陥落と敵前逃亡した宣祖に対する失望から、朝鮮軍には一気に動揺が広がることとなる。首都防衛のために漢城に向かっていた地方の軍隊のなかには兵の逃亡を抑えられずに自壊したものもあった。
朝鮮の義兵や水軍による反攻
日本軍が朝鮮半島に上陸した直後に朝鮮の官軍は壊滅状態となり、漢城は20日ほどで陥落した。しかし、朝鮮の人々が無気力にこの国難を傍観していたわけではない。官軍とは別に在野で義兵の組織化が進み、決起したのである。その多くは官職を得られなかったり、党争に敗れて下野した不遇な者たちであった。彼らはまるで再起を期すかのように命を賭して日本軍に戦いを挑んでいった。
最初に決起したのは慶尚道の両班の子弟郭再祐(クァクチェウ)であった。彼は科挙に挫折して隠居のような暮らしを送っていたときに戦争が勃発し、4月末の時点で早くも私財を投じて私奴とともに挙兵している。宜寧などの地域を取り戻したのち、晋州の官軍と合流して日本側の攻撃を退けた。こうした功績により、8月に刑曹正郎の官職が授与されている。
郭再祐の奮戦により各地の両班が刺激を受け、郷土防衛の義兵を組織していった。たとえば、全羅道の高敬命(コギョンミョン)は宣祖が都落ちした直後に「君父に報ゆる時なり」と檄をとばして挙兵している。彼はかつて西人に属する東莱府使であったが、政権が東人に移った際に罷免されて失脚しており、挙兵時には郷里で隠居生活を送っていた。羅州では金千鎰(キムチョニル)が義兵1000名を募って決起している。彼の境遇も似ており、西人に属していたことから水原府使を最後に官職から身を引き、郷里で子弟に学問を教える生活を送っていた。
二人は7月初旬に全羅道を攻略しようとする小早川隆景の軍勢と錦山で激戦を演じた。戦い自体には敗れ、高敬命は命を落とすが、小早川の全州侵攻を頓挫させることに成功している。生き残った金千鎰は8月に官軍とともに江華島に転戦するが、その頃に朝廷から倡義使(国家に大乱があったときに義挙した者に与える臨時職)の称号を賜り、掌隷院判決事にも任命された。
忠清道で挙兵した西人の趙憲(チョホン)もそれまで不幸な境遇にあった人物である。政敵の策略にかかって官職を失ったのち、朝廷の失政を批判してしばらく地方に配流されていた。開戦早々に門人とともに1600の義兵を集め、8月には清州を奪還している。その後、官軍の妨害で強制解散させられるも、残った700名とともに錦山に行軍し、小早川との激戦で討ち死にした。
陸上ではこのように朝鮮の官軍を補うように各地で義兵が起こり、日本の軍勢に対抗した。他方で海上に目を向けると、緒戦で朝鮮水軍は壊滅して慶尚道の制海権を奪われはしたものの、その後は反攻に転じて日本水軍を圧倒することとなる。海戦に長けた全羅左水師の李舜臣(イスンシン)が慶尚道の救援に駆け付けたからだ。
李舜臣は5月初旬に全羅右水師の李億祺(イオッキ)と共同で巨済島の東に位置する玉浦沖に出撃し、藤堂高虎らの水軍を撃破した。次いで5月末にはじまった泗川沖の海戦では潮流の変化を巧みに利用し、「亀甲船」で日本水軍に突入して多大な損害を与えている。
7月には囮(おとり)船数艘を脇坂安治の船団に近づけて閑山島沖におびき出し、待ち受けていた配下の水軍でこれを包囲した。このとき、脇坂を取り逃がしはしたが、軍勢に壊滅的な打撃を与えている。さらにこの大敗を知って撤退した他の日本水軍を間髪入れずに追撃した。日本水軍の連戦連敗に衝撃を受けた秀吉は、指示があるまでは海戦を避け、島に築いた城から朝鮮水軍を砲撃するよう命令している。
※新城道彦『朝鮮半島の歴史―政争と外患の六百年―』(新潮選書)から一部を再編集。