「NHK」「日テレ」初放送争いの背後に「CIA」「吉田茂」「読売新聞社主」の暗闘が 知られざるテレビ創世記秘話
CIAの工作だったことが判明
この当時、野村はジャパンロビーを通じてアメリカ政府に海上警備隊(のちの海上自衛隊)の設立を支援してもらっていた。海軍大将だった野村は戦後一貫して「日本海軍復活」のために動いていた。
実はテレビ放送に使うマイクロ波は、レーダーや航空管制、移動体通信などにも使えるものなので、反共のプロパガンダ放送網としてだけでなく軍事通信網としての有用性も持っていた。
だからVOA予算が削減されても、このマイクロ波通信網は、日本に駐留するアメリカ軍にとって、通信インフラとして必要であることに変わりはなかった。とくにアメリカは朝鮮戦争勃発後、日本に強力に再軍備を働きかけていたが、そのためにも軍事インフラであるマイクロ波通信網が必要だった。
だが、これは電波を使うので、アメリカが日本の主権を無視して作ることはできなかった。そこで正力のテレビ放送網をアメリカ軍の通信網のカバーとして、早急に日本に作ろうと思いたったのだ。
のちにCIA文書の公開によって、この借款工作の支援は日本にマイクロ波通信網を作るためのCIAの工作(暗号名ポダルトン)だったことがわかる。キャッスルはCIAの顧問でもあった。
日本テレビも東京で放送を開始
53年2月1日、NHKが東京の一部限定でテレビ放送を始めた。正力にとってはショックだっただろうが、慰めだったのは全国放送ではなかったことだ。東京限定の初放送で後れをとったとしても、1千万ドルの借款が得られれば、NHKより先に全国放送を実現する名誉が得られる。
同年3月24日、柴田はテレビ放送に沸く東京を後にして、アメリカへと飛び立った。ニューヨークのラガーディア空港で彼を迎えたのはOSS(戦略情報局。CIAの前身)OBの弁護士たちだった。彼らの仲介で柴田は国務省、国防総省、商務省、アメリカ極東軍参謀本部の関係者たちと会合を重ね、借款の推薦状を得ることができた。もとよりCIAの工作なのでスムーズにいった。
柴田がアメリカに発ったあと、正力は急いでRCA(アメリカ・ラジオ会社。メディア運営の他、テレビ製造等も手掛ける)に送出機などの機材の発注を行った。RCAは当時としては異例の速さで対応した。のちに正力が街頭用のカラーテレビを調達したとき、CIAが介在したことが機密文書からわかるので、このときもこの機関の介在があったと考えていいだろう。
これらの機材をそろえ、清水建設や石川島重工業が局舎やテレビ塔を建設して、8月28日、日本テレビは東京でテレビ放送を開始した。
放送開始の式典には吉田も招待され、自分の「反対まで押し切って」とか皮肉たっぷりの祝辞を述べた。
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