「NHK」「日テレ」初放送争いの背後に「CIA」「吉田茂」「読売新聞社主」の暗闘が 知られざるテレビ創世記秘話

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NHKの反転攻勢

 一方NHKの方には光が差してきた。サンフランシスコ条約が発効して占領軍が去ることになったからだ。

 ここでワンマン宰相と呼ばれた当時の首相・吉田茂(1878年生まれ)がテレビに大きく関わってくる。彼は占領軍が何から何まで押し付けてくるのに我慢がならなかった。ファイスナーが作らせた電波監理委員会も気に食わなかった。

 この独立行政委員会に放送行政を任せれば、一国の総理といえども放送に干渉できない。戦前、戦中の国策遂行の宣伝機関としての放送(当時は日本放送協会のみ)しかイメージできない吉田にとって、政府が言うことを聞かせられない放送など考えられない。占領が終われば、以前に戻るのが当然だと思っていた。

 この考えに従って吉田は52年7月31日に電波監理委員会設置法と電波監理委員会を廃止した。これによって放送に対する支配権を政府に取り戻した。

 それまでGHQに支配されていた電波監理委員会は、日本テレビだけに免許を交付して解散したが、あとを受けた郵政大臣・佐藤栄作(1901年生まれ)は、NHKにもテレビ放送免許を与える決定を下した。NHKはこれによって反転攻勢に移った。

 正力は吉田に抗議したが、すでに占領軍の後ろ盾がなくなっているのでどうしようもなかった。

 NHKは早速テレビ放送の送出機をアメリカに発注し、ほかの機器は国産ですませることにした。これによってテレビ初放送に向けたカウントダウンに入った。

全国放送をめぐる争い

 正力はといえば、7億円もの出資金を集め、52年10月15日に日本テレビ放送網株式会社の設立総会を行ったが、その先に進めなかった。

 NHKが東京局だけを先行させてテレビ初放送するのに対し、正力は日本全国に22の直営局を持つ「放送網」として初放送を実現しようとしていたので巨額のドル資金を必要とした。だが、当時は外貨準備高が不足しているため、円をドルに換えられず、ドルでテレビ関連機材を大量には買えなかった。

 この時点で、日本テレビは、横から割って入ってきたNHKに、東京での初放送争いで逆転を許すことになった。次は全国放送をめぐる争いになった。

 正力の窮状を見てアメリカの別の勢力が援助のために動き出した。ジャパンロビーと呼ばれる、日本の保守勢力とアメリカ共和党タカ派とを結び付けていたグループだ。その共同代表のひとりウィリアム・キャッスル(元駐日米国大使)が正力にアメリカの輸出入銀行に1千万ドルの借款を申し込むことを勧めた。その仲介にはキャッスルの親友で元外務大臣の野村吉三郎(1887年生まれ)が入った。

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