「NHK」「日テレ」初放送争いの背後に「CIA」「吉田茂」「読売新聞社主」の暗闘が 知られざるテレビ創世記秘話

国内 社会

  • ブックマーク

ようやくNHKが登場

 51年4月、ファイスナーはムントの構想を実現するため、正力の私設秘書の柴田秀利(1917年生まれ)を電波監理委員のアメリカ視察旅行の随行記者という名目でアメリカに送った。電波監理委員会とはアメリカの連邦通信委員会に倣ってファイスナーが作らせたもので、政府から独立して放送行政を担う機関だ。これによって戦前のように政府が放送に干渉することを防ぐのが狙いだった。

 それで、実際にどのように実務を行うのか研修するために、電波監理委員をアメリカに送って視察させることになった。ファイスナーはこれを利用して、柴田をムントのもとに送ったのだ。

 柴田はワシントンD.C.でムントと会い、テレビ導入のための次のような密約を交わした。

 正力側 (1)アメリカのテレビ方式(NTSC方式)を導入する。(2)テレビ放送免許を取得する。(3)2億5千万円の出資金をあつめてテレビ放送・通信会社を設立する。

 アメリカ側 (1)テレビ技術を提供する。(2)テレビ関連機材を提供する。(3)前項二つを実行するためのドル資金を提供する。

 これに基づいてムントは51年8月22日にヘンリー・ホールシューセン(1894年生まれ)ら彼の顧問3人を使節団として日本に派遣した。正力は読売新聞を使って彼らの講演会を大々的に宣伝した。これによって日本におけるテレビ熱は一気に高まった。

 翌52年2月16日、電波監理委員会はテレビ方式をNTSC方式にすることを決定した。この決定にあたって聴聞会が開かれたが、ここでようやくNHKが高柳健次郎(1899年生まれ)とともに登場する。

日本テレビがテレビ初放送を行う予定だったが…

 高柳は戦前、浜松高等工業学校助教授のときにテレビ受像機を開発していた。日本放送協会(NHKの呼称は46年から)は、これを使って40年のオリンピック東京大会をテレビ放送する計画だったが、日中戦争激化によって大会自体が幻に終わった。

 その後は戦争のためテレビ開発には進展が見られなかった。NHKは占領中完全にGHQに支配されたためテレビ放送など考える余裕はなかった。それに、前述のように、ファイスナーはNHKにテレビ放送を許すつもりはなかった。

 テレビ方式も決まり、正力の資金調達の動きも活発化し、テレビ放送開始の準備が整った。このままでいけば52年の後半には日本テレビがテレビ初放送を行うはずだった。

 ところが、海の向こうのホールシューセンがトラブルに陥っていた。アメリカ政府が方針転換したのだ。

 それまでアメリカは、反共の放送ネットワークを世界中に築くために膨大な予算を割り当てていたが、それが肥大し過ぎたために、反動で大幅な予算カットを行うことになった。

 ホールシューセンはこの政策転換によって52年4月の段階で資金調達にいきづまり、密約を果たせなくなっていた。だが、彼は、正力が別の人間に頼るのを恐れて、自分がお手上げになっていることを隠していた。この間、正力はひたすらホールシューセンを信じて待っていた。

次ページ:NHKの反転攻勢

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[3/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。