「NHK」「日テレ」初放送争いの背後に「CIA」「吉田茂」「読売新聞社主」の暗闘が 知られざるテレビ創世記秘話
占領軍の政策転換で
この頃、占領軍は占領政策を大きく転換しようとしていた。つまり、二度と戦争を起こせないよう日本の政治、軍事、産業を徹底的に弱体化させる方針から、むしろこれらにテコ入れし、共産主義への防波堤とする方針へと転換したのだ。49年、国共内戦に勝利した中国共産党が中華人民共和国を成立させてからはより明確になってくる。
アメリカ上院外交委員会の有力議員カール・ムント(1900年生まれ)はこの流れを受け、50年に中ソのプロパガンダに対抗するための反共テレビネットワーク(プロパガンダのための国営ラジオネットワークVOA(ボイス・オブ・アメリカ)のテレビ版でビジョン・オブ・アメリカと名付けられた)を日本に敷設することを連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに打診した。
彼はこの件を放送制度の設計を担当していたGHQ民間通信局分析課長代理クリントン・ファイスナー(1911年生まれ)に任せた。この人物は50年に日本で施行された放送法の作成に深く関わったので「放送法の父」といわれる。ちなみに私は生前の彼に何度も聞き取り調査を行っている。
なぜ正力が注目された?
GHQは占領中こそNHKを徹底的に利用したが、そのあとはポイ捨てするつもりだった。戦前・戦中を通して軍国主義プロパガンダで日本国民を洗脳したNHKがそのまま残ることは望ましくないと考えていたのだ。
その証拠に放送法の原案となった48年のファイスナー・メモには、将来テレビ放送は民間に委ね、NHKにはラジオ放送のみ許す旨が書かれている。つまり、NHKはラジオとともに衰退するにまかせ、これにテレビとともに勃興する民間放送が取って代わることを想定していた。こうすれば、日本はアメリカと同じ民間放送王国になる。だが、それには民間テレビ放送事業を起業する人間が必要だ。
そこでファイスナーは正力に注目した。皆川が引っ張り出してきたこの男は、もともと警察官僚で、かつては共産主義者やアナキストを取り締まっていた。その後新聞業界に身を転じ、その経営手腕によって弱小新聞を三大紙の一角に押し上げた。反共のテレビネットワークの事業主としてこれほどふさわしい人間はいない。これに比べて、皆川は一商店主にすぎなかった。
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