まさに“猛牛伝説”! 近鉄を初のパ・リーグ制覇に導いた「奇跡のバックホーム」
首位をひた走る“近鉄特急”
プロ野球を巡る優勝のドラマは、球史に残るスーパープレーとともに語られることが多い。1979年に球団創設31年目で悲願の初Vを実現した近鉄にも、前期優勝(当時のパ・リーグは2シーズン制)のかかった同年6月26日の南海戦で、センター・平野光泰の“奇跡のバックホーム”という伝説のプレーがあった。【久保田龍雄/ライター】
前年の1978年、広岡達朗監督率いるヤクルトが球団史上初のリーグVと日本一を達成した。この結果、近鉄はセパ12球団で唯一の優勝未経験チームになった。だが、かつて万年Bクラスだったチームも、名将・西本幸雄監督の下、前年の後期も阪急とV争いを演じるなど、優勝を十分狙えるまでに力をつけていた。
西本監督が就任6年目を迎えた1979年は、ヤクルトの主砲・マニエルをトレードで獲得し、大砲不在の弱点を解消。前期が開幕すると、4月を13勝3敗1分というぶっちぎりの成績で、首位をひた走った。5月に入っても“近鉄特急”の勢いは止まることなく、同19日には早くもマジック「19」が点灯する。
ところが、好事魔多し。6月9日のロッテ戦で、リーグトップの24本塁打を記録していたマニエルが顎に死球を受け、前期の残り試合出場が絶望に。さらにエース・鈴木啓示も肩痛で登録を抹消され、暗雲が漂いはじめる。
翌10日のロッテとのダブルヘッダーを総力戦で連勝し、マジックを「7」まで減らしたものの、投打の柱を失ったチームは、ここから1勝6敗2分と急失速。6月23日にはライバル・阪急に逆マジック「4」が点灯し、いよいよ苦しくなった。
闘志むき出しの“ガッツマン”
だが、優勝に一縷の望みをつなぐ近鉄ナインは、残り3試合(いずれも南海戦)に全力で挑む。6月24日の南海戦は序盤の4点リードを6回表に逆転されたが、その裏、常に闘志むき出しのプレーで西本監督から“ガッツマン”と呼ばれる平野の二塁打で再逆転し、7対5で逃げ切り。阪急が敗れたことにより、再びマジック「2」が灯った。
翌25日も平野の3本塁打などで10対1と大勝し、ついにマジック「1」。26日の前期最終戦に勝つか引き分けるかで優勝が決まるところまで来た。
投手事情の苦しい近鉄は、2日前に先発し、5回途中降板した5年目の村田辰美が中1日でマウンドに上がった。大事な試合で責任をはたせず、「もう出番はないだろう」と落ち込んでいた左腕は「(中1日は)苦しかったけど、そんなこと言ってられない。監督に『任せる』と言われ、うれしかった」と意気に感じ、一世一代の投球を見せる。
打線も2回1死二塁、“こんにゃく打法”梨田昌孝の左前タイムリーで1点を先制したが、3回以降、近鉄の各打者は「自分が打たなければ」と力み、金縛りにあったようにあと一打が出ない。
4回に村田が王天上(米国からの助っ人、オーテンジオの登録名)に同点打を許すと、重苦しいムードは一層増し、試合は1対1のまま終盤へ。流れはしだいに南海へと傾いていく。
そして、8回1死一、二塁のピンチで、代打・阪本敏三の糸を引くような打球が、二塁ベース付近からゴロになって、中前に抜けていった。スタンドの近鉄ファンから悲鳴と絶叫が上がる。
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