昭和の伝説的“遊び人グループ”「野獣会」とは何だったのか? 元メンバー・田辺靖雄が明かす「大原麗子デビュー秘話」と「後見人」

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交際をやめるようにと告げられた

 こうして大原は野獣会の一員となる。注目される若者グループに加入したことは、間違いなく大原の運命を変えた。そしてこの出会いをきっかけに、田辺と大原は交際を始めたという。

 ところで、前出の河原のロケ現場で、大原と田辺は一緒に写真を撮っていた。大原の友人がカメラを持っていたのだ。

 田辺は、

「これ、今までどこにも出していないんだけど……」

 と言って、その時に撮影した貴重な写真を見せてくれた。初公開というわけだ。

 それは若き田辺と大原の2ショット。大原は田辺に後ろから抱きつき、笑顔を見せている。当時、田辺16歳、大原15歳。有名になる前の二人は、出会ったばかりとは思えないほど接近していた。二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。

 しばらくして、田辺は渡辺プロに大原を紹介した。しかし、断わられたばかりか、同プロから田辺の親に電話がかかってきて、交際をやめるようにと告げられたという。

「当時の僕は売り出し中で、彼女はまだ一般人のようなものだったから。事務所としては“虫”がつくと、自社タレントの商品価値に関わると考えたのでしょう」

 大原はかくて、他の事務所を経て東映に入る。

「東映入りが決まった時、突然、彼女から電話がかかってきました。“やっちん(田辺の愛称)、私、東映に入るの。女優よ。女優さんだからね~”と、とてもうれしそうでした」

死の直前の電話

 大原からはいきなり電話がかかってくることが何度もあった。今から50年ほど前、田辺の母親が亡くなった時には、忙しい合間を縫って連絡をくれたそうだ。そして2009年にも唐突に電話が。後から思うに、それは彼女が亡くなる直前のことだった。

「久しぶりに連絡があったと思ったら、話の最後の方に“私が女優になったのは、やっちんのおかげね。あの時、やっちんに会わなかったら、女優になってなかったね”と。出会ってから長かったけど、そんなこと一度も言われたことなかったから、どうしたんだろうと思いました」

 ほどなく大原は世を去った。きっと田辺に感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。

 田辺は野獣会での日々を、声を弾ませてこう振り返った。

「映画『アメリカン・グラフィティ』(73年公開)を見た時、野獣会そのものだと思いました。設定の年代もちょうど同じ頃で。楽しい会だった。出来事ひとつずつが、どれも新しくてときめいてね。娯楽なんてない時代に、遊び方とか楽しみ方を自分たちで考えて作っていった。テレビや雑誌、レコードといったメディアがどんどん伸びていくという時代で、みんなが一生懸命だった。その世界に関わっていくきっかけをくれましたからね。感謝しています」

 未来への楽観的な空気感とエネルギーに満ちた昭和の時代の物語である。

(一部敬称略)

華川富士也(かがわふじや)
ライター、構成作家、フォトグラファー。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町、昭和ネタなどを得意とする。シリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。

週刊新潮 2023年6月22日号掲載

特別読物「あの“遊び人グループ”は何だったのか 歌手『田辺靖雄』が明かす『野獣会』の真実」より

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