昭和の伝説的“遊び人グループ”「野獣会」とは何だったのか? 元メンバー・田辺靖雄が明かす「大原麗子デビュー秘話」と「後見人」
なぜ出身者が芸能人として成功?
やがて赤坂のカフェに集まっていた若者の中から、田辺、峰岸がスカウトされ、芸能プロの所属になった。先に「雑誌で紹介された」という話が出たが、
「シャンゼリゼにいると、有名なカメラマンがやって来て、その場で撮影が始まったり、“これから軽井沢に行こう”と誘われて撮影に行ったり。雑誌社の人とかから“明日、湘南に行ける人は?”みたいに聞かれ、グラビア撮影に呼ばれたりもしていました。あの頃は高速道路がなかったから、軽井沢なんかは夜通し車で走って朝から撮影。大変でしたよ」
それこそスカウトの一環だった。何者でもなかった10代の若造がかくて野獣会から芸能界入りし、勇躍羽ばたいていった。井上や大原も後に続いた。
さて、これほどの芸能人が次々と輩出したとなると、気になるのは「どんな目利きがメンバーを集めたのか」「出身者はなぜ芸能人として成功できたのか」ということだ。
実のところ、野獣会にまつわる過去の記事をひもといても、この点にしっかり触れたものはなかった。野獣会についてまとめた書籍もあるわけではない。そのため基本的な情報さえ欠落しているのが実情だ。
二人の大物が「後見人」
まずは、実態が比較的浮き彫りにされている後者、すなわち出身者がなぜ芸能人として成功できたのかについて解き明かそう。
田辺によれば、野獣会には二人の大物が「後見人」としてついていたという。
一人は作曲家のすぎやまこういち氏。もう一人は大手芸能事務所・渡辺プロダクション現名誉会長の渡邊美佐氏だ。
「われわれが野獣ということで、二人は飼育係と呼ばれていました」
すぎやま氏は31年生まれ。野獣会が誕生した61年当時はフジテレビに在籍しながら作曲家としても活躍し、渡辺プロとタッグを組んだ音楽番組「ザ・ヒットパレード」(59~70年)ではディレクターを務めながらテーマ曲も作曲。フジテレビは65年に退職したが、渡辺プロとの関係は続き、同プロ所属のザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」やザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、キャンディーズの楽曲などを手がけた。2年前に90歳で他界。アラフィフ以下の若年層には、大人気ゲーム「ドラゴンクエスト」のテーマ曲を担当した人物として有名だ。
一方の美佐氏は28年生まれ。夫の晋氏(87年逝去)と二人三脚で渡辺プロの黄金期を築いた人物で、58年に「日劇ウエスタンカーニバル」を立ち上げ、ロカビリーブームやグループサウンズブームを巻き起こすなど、芸能史に数限りない足跡を刻んできた。
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