【藤圭子】衝撃の死から10年 幼少期を過ごした北海道での極貧生活…彼女の「陰影」の原点に迫る

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「新宿」の女

 類いまれな才能が開花したのは、彼女がデビューした「新宿」という街が宿す風土もあるにちがいない。

 ホステス、フーテン、ヒッピー、アングラ劇団……。彼らが持っていた反骨、疎外感、痛み、やりきれなさなどをも共有していた。その意味では、彼女の存在自体がすぐれて新宿的だったともいえるだろう。「メメント・モリ(死を思え)」ということを無意識に自覚していたかもしれない。

 藤さんをめぐる不幸は、音楽業界をめぐる変化からも予測できた。80年代以降、歌を巡る風景は大きく変わったのである。

 貧困、地方、因習、孤独……。演歌や歌謡曲が担い、多くの日本人が抱えていた負の心情は薄らぎ、時代が見えなくなったのである。「怨歌」を歌えば歌うほど、社会や時代とのギャップを藤さん自身が感じただろう。

 2013年8月22日朝。西新宿にある28階建て高層マンションの13階から飛び降り自殺した藤さん。マンション前の路上で仰向けのまま倒れ、頭から血を流しているのが見つかったのだが、目撃者によると、藤さんの顔は安らかだったという。13階のベランダの手すりの高さは1メートルほどしかない。足元にはクーラーボックスがあり、それを踏み台にして飛び降りたのだろう。

 マンションは藤さんの知人の男性が購入したもので、藤さんは居候のような形で暮らしていたたらしい。マスコミはあれこれスキャンダラスに騒いだが、2人に「男女関係」はなかった。

 それにしても、日本の歌謡史における藤圭子さんの存在意義とは何だったのだろう。育ての親であり、人生の辛酸をなめた作詞家・石坂まさを(1941~2013)との出会いと絆。宿命的に苦労を背負っていた女性といえるだろうが、やはり「陰の濃さ」が藤さんの藤さんゆえんだったのではないか。

 伝説となって語り継がれるスターには「陰影」がある。放たれる光が強いほど、その影は濃い。どうも最近の芸能界は陰の濃い人が少なくなった。

 降り注ぐスポットライトの中で直立して歌う姿がまぶたに浮かぶ。まるでガラスケースに入った人形のようだった。だが人形は、最後は自らの運命を自分で決めた。「自死」という結果で幕を下ろした。

 さて、次回は気分一新。「あんな風に死ねたらいいなあ」と思えるような人生を過ごした人の話である。東京・吉原の旧赤線地帯で暮らし、色と欲にまみれた一生を過ごした風俗ライター・吉村平吉さん(1920~2005)。84歳の痛快人生! サア、サア始まるよ。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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