【藤圭子】衝撃の死から10年 幼少期を過ごした北海道での極貧生活…彼女の「陰影」の原点に迫る

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ちらつく不幸の陰

 両親は仕事が入ると、何日もアパートを空けて帰ってこなかった。ご飯に醤油をかけて食べる日々。水道代にも困っていたのだろう、冬は下駄で川の氷を割っておしめを洗った。真冬には零下41度と日本の最低気温を記録した旭川。猛吹雪に、あばら屋も吹き飛ばされそうになったにちがいない。

 やはり少女のころから不幸の陰がちらつく。いとこによると、昔の貧乏生活が藤さんの脳裏にときおりフラッシュバックしたのではないか、という。

 藤さんは1979年に引退表明して渡米するが、2年後に復帰。一時芸名を「藤圭似子」とした。「似」とは、何に似ようとしたのだろう。真相は藤さんにしか分からない。

 やがて音楽プロデューサーの宇多田照實氏(74)と結婚。2人の間に生まれたのが宇多田ヒカルさん(40)だ。

 だが、せっかく手に入れたと思った幸せな家庭生活も崩壊。離婚し、長く孤独な生活。精神的に追い詰められていたのではないか。

「自分を『暗い』と思ったことはなかった。怨念といっても、ことさら身を切り、骨を切るといったつらさの実感もあまりなかった」

 若いころの藤さんは、マスコミの取材にそう応じてはいるが、虚像を演じていただけかもしれない。

 藤さんの生い立ちに戻ろう。

 中学卒業を1カ月後に控えていたとき、地元の雪まつりショーに出演。その歌を偶然に聴いた東京の作曲家が「娘さんを東京に出して、歌の勉強をし直しませんか。きっと売れます。スターになれます」と熱心に懇願。藤さんは両親と一緒に上京し、目の不自由な母の手を引き、浅草など東京の下町を流した。

 1969年、18歳のとき、「17歳」と年齢を偽って「新宿の女」でデビュー。70年、「♪十五、十六、十七と私の人生暗かった」とうめくように歌った「圭子の夢は夜ひらく」は、安保闘争に敗れた若者らの共感を呼び、「怨歌」と呼ばれた。

「人生の深い淵を覗いてしまったようなしわがれ声と本音がにじむなげやりな歌唱法は、ただ者でなかった」

 そう語っていたのは、先日亡くなった音楽プロデューサーの小西良太郎さん(1936~2023)だった。小柄な体なのに、レコーディングのとき声量を示すメーターの針の揺れは異常に大きかった。あの独特の、だみ声のような暗い怨念を秘めた歌声は、天性のものだった。まるでワアワアと、カラスでも鳴いているような不思議な声だったという。

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