【藤圭子】衝撃の死から10年 幼少期を過ごした北海道での極貧生活…彼女の「陰影」の原点に迫る

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 今から10年前の2013年8月、自宅マンションから飛び降り自殺した歌手・藤圭子(1951~2013)。その死は大きなニュースとなりました。朝日新聞「大衆文化担当」編集委員の小泉信一さんは、現場はもとより、彼女の生まれ故郷に足を運び、取材を重ねました。突然の死を前に、彼女の胸中に去来したものは何だったのか――。様々なジャンルの人々が人生の幕引きを前に抱いた無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」、藤圭子の後編です。

岩手県生まれの北海道育ち

 藤圭子さんの突然の死から2カ月後の2013年10月下旬、私は北海道北部の名寄市にいた。JR札幌駅から特急と在来線を乗り継ぎ約3時間。かつては宗谷本線の中心地として林業で栄えた街も時代とともにすっかり冷え込み、商店街を歩いてもシャッターを閉め切ったままの店が多かった。

 本州ではまだ秋。これから紅葉の季節を迎えるというのに、この北の小さな街には灰色の雲が垂れ込め、ちらちらと粉雪が舞っていた。

「これから長い長い冬だべ」

 滞在していた名寄駅近くの安宿のご主人が、ぼそりとつぶやいた。ストーブの上に置かれたやかんからジューッと白い水蒸気が舞い上がる。

 なんだか、自分が遠い世界に迷い込んでしまったような気がした。8月22日の藤さんの悲報以降、さまざまな人に会い、証言をインタビューした。でも、なぜ彼女が人生の終幕を自らの死で終えたのか、その答えは分かるようで分からなかった。

「俺は一体何をやっているのだろう」

 肌を突き刺すような寒さに、夜は何度も目を覚ました。

 藤さんの実像になかなか迫れなかったこともあり、もやもやとした焦燥感や疲労感を覚えていた。そんな悩みを振り払おうと、北海道までやってきたのに……。

 名寄に来る前の日は旭川市に泊まった。小中学時代、藤圭子と同級生だった人に会うことができた。

「阿部純子(藤圭子の本名)は、とても利発な子だった。貧乏だった家の仕事を手伝うため学校は休みがちだったけれど、勉強はクラスのトップだったのではないかなあ」

 と言う。地域の祭りや集会があると、藤さんはマイクなしで唄を歌い、お小遣いをもらっては喜んでいたそうだ。地元の神社で開かれた歌謡大会では美空ひばりの「リンゴ追分」を熱唱し、優勝した。歌うことが好きな普通の娘だったのだろうか。

 それにしても、岩手県の一関生まれの藤さんが、なぜ北海道なのか。名寄市在住の藤さんのいとこが取材に応じてくれた。

「私の父が東京の浅草で浪曲師をしていたのですが、終戦前に北海道に疎開してきたのです。その父を頼って岩手から来たのが、親戚の藤さん一家でした」

 話によると、藤さんの父は流しの浪曲師、目が不自由な母は相方の三味線弾きだった。いわゆる村から村、町から町へ渡り歩いた「ドサ回り」である。借家暮らしで紙芝居もしていたが、やがて旭川に移住。でも生活は相変わらず貧しく、アパートは雨が降るとひどい雨漏りがしたという。

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