シティ・ポップのレジェンド「林哲司」は代表曲「悲しい色やね」が嫌いだった? 本人が明かした真相と、作詞家に伝えた言葉

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渋谷の喧騒のなかで“いい歌だなぁ”

 林氏はしばらく関西弁の歌詞の件を消化できずにいたが、ある日、渋谷の街で偶然「悲しい色やね」に遭遇し、考えが変わったという。

「道玄坂に向かう途中にあったパチンコ屋から、不意に流れてきたんです。思わず立ち止まって耳を傾けていたら、言葉がすごく入ってきた。スタジオなどで身構えて聞くのではなく、街の喧騒の中、自然体で聴いたら“いい歌だなぁ……”としみじみと思えたんですね。この時を境に、作曲への意識が変わりました。それまでの僕はいいメロディを書くことしか考えてなかった。しかし、そのメロディにふさわしい歌詞があり、その作品に歌い手が息吹をこめる。三者がきっちり噛み合って初めて人に感動を与えるいい作品になる。この歌のおかげでそのことを悟ることができたんです」

 以降、林氏は良いメロディを書くことに加えて、日本語の歌詞の乗り方も検証しながら曲作りをするようになったという。

「デビューから50年。作曲家としてやってきた中で、最も重要な曲の一つです。だから康さんに感謝していると伝えたんですよ」

 林氏はまた、ディレクター関屋薫氏の手腕も評価する。

「『悲しい色やね』はアルバム収録曲の一曲として受けました。関屋さんはコンセプトをしっかり持っているディレクターで、関西弁の歌詞を認めたことも、この曲をシングルカットした判断も素晴らしかった」

 話を林氏と康氏の会食に戻すと、関西弁の歌詞に関する誤解は解けたが、最後まで意見が食い違ったことがひとつあったという。

「ヒットしたきっかけについてです。康さんは“札幌から火がついて大阪に飛び火した”と言われるんですが、僕は島田紳助さんら大阪の芸人さんがこの曲を支持し、有線放送から火がついたと聞いていました」

 この点については最後まで意見が合わなかったそうだ。

 なお林氏は6月30日~7月2日までの3日間、東京・赤坂で「林哲司デビュー50周年記念SPイベント『歌が生まれる瞬間(とき)』」を開催する。ゲストには作曲家・編曲家の萩田光雄氏、船山基紀氏、作詞家の売野雅勇氏、松井五郎氏らが予定されており、また違ったヒット曲の秘話が明かされそうだ。

華川富士也(かがわ・ふじや)
ライター、構成作家、フォトグラファー。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町、昭和ネタなどを得意とする。シリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。

デイリー新潮編集部

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