シティ・ポップのレジェンド「林哲司」は代表曲「悲しい色やね」が嫌いだった? 本人が明かした真相と、作詞家に伝えた言葉
「大阪弁で書いていいですか」
林氏は「関西弁が嫌とかじゃないんです」と強調し、こう続けた。
「僕は普通の日本語詞しか想定してなかった。そこに突然、関西弁が入って、しかもハマっていたから驚いたんです。予想もしないボールが飛んできて“エッ!”となったんですよ」
補足しておくと、この曲が発売された1982年当時、東京のテレビに出演する関西芸人は今よりずっと少なかった。現在のようにテレビからしょっちゅう関西弁が聞こえてくるような状況ではなかったのだ。たとえば、大阪から多数の芸人を東京に送り込んできた吉本興業は、いまでこそ東京本部を構え東京でも多数の芸人を抱えているが、当時はこじんまりした「東京連絡所」があったのみ。それも漫才ブームを機に1980年に開設したばかりだった。連絡所が「東京事務所」になるのは87年のこと。92年に東京支社、2000年にようやく東京本社に昇格した(02年に東京本部と改称)。関東以北で関西弁にあまり馴染みがない時代だっただけに、林氏が受けたインパクトも大きかったわけだ。
一方、康氏は試行錯誤の末に関西弁の詩にたどり着いたことをweb音楽誌「otonano」の林哲司特集号で明かしている。
<関屋ディレクターとの打合せでも、ちゃんと“都会の大人のオシャレなラヴ・バラードを”と指示を受けていたし、僕もそのつもりだったんですよ。でも実際に書いていると、期待されてる“シティ”という響きの都会のバラードが、どうしてもキー坊(注:上田正樹の愛称)の個性とフィットしなくて、ブレーキが掛かかってしまう>
そこで康氏は関屋ディレクターに「大阪弁で書いていいですか」と相談し、了承を得た上であの詩を書いた。前出のように関屋ディレクターが林氏の顔色をうかがっていたのは、こうした経緯があったからなのだ。
[3/4ページ]