高倉健は「自分も特攻隊に…」 鶴田浩二、松方弘樹、渡瀬恒彦…中島貞夫監督が語っていた愛すべき俳優たちの実像

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30歳年下の夫人を「姉さん」と呼んでいた松方弘樹さん

 松方弘樹さんと中島監督も親しかった。1974年のNHK大河ドラマ「勝海舟」の主演を務めていた渡哲也さんが体調不良で降板すると、代役を務めた松方さんを推薦したのは中島監督。脚本を担当していた倉本聰氏(88)から、代役の人選を頼まれた。

「倉本から『渡哲也が倒れた。代わりが務められる俳優はいないか』と相談されたので、弘樹ちゃんを推した」(中島監督)

 中島監督、倉本さん、TBSの演出家だった鴨下信一さんは東大出身で、在学中から親友なのだ。3人は「東大ギリシャ悲劇研究会」の中心メンバーだった。

 室田日出男さんや川谷拓三さんら、東映の大部屋俳優が中心の俳優集団「ピラニア軍団」を倉本さんに紹介したのも中島監督だ。それによって室田さんと川谷さんは、倉本さんが脚本を書いた日本テレビ「前略おふくろ様」(1975年)への出演機会を得た。

 一方、松方さんは「勝海舟」の撮影に入ったものの、倉本さんと意見が衝突。倉本さんは降板してしまう。制作関係者と視聴者に後味の悪さが残った。

 失意の松方さんに対し、中島監督は主演作「脱獄広島殺人囚」(1974年)を用意する。これがヒットし、「暴動島根刑務所」(1975年)、山下耕作監督の「強盗放火殺人囚」(同)と続く。いずれも評判高く、やがて「松方弘樹の“脱獄”3部作」と呼ばれるようになる。

「正統派の仁侠モノでは、弘樹ちゃんらしさがあまり出なかった。だけど、狂気を持つ男を演じさせたら、彼の右に出る俳優はいなかったんじゃないかな」(中島監督)

 松方さんは義理堅い人で、それ以降は中島監督作品への出演は二つ返事で引き受けた。2016年には中島監督がつくったドキュメンタリー映画「時代劇は死なず ちゃんばら美学考」に出た。

「弘樹ちゃんの時代劇に対する考え方を語ってもらった。その際、僕が『また時代劇を撮るから、出てくれな』と頼んだら、『分かったよ』と言ってくれたんです。それなのに約束を破りやがって……」(中島監督)

 この年、松方さんが病に倒れ、翌2017年に息を引き取ったからだ。

 松方さんは父親が時代劇界の大スター・近衛十四郎さんだけに、良くも悪くもボンボン。人が好かった。

「屋外で撮影許可を取らず、ゲリラで撮っている時、一般の人に気づかれると、手を振ってしまうんですよ(笑)。金を貯めることなど一切考えず、いつも共演者やスタッフを引き連れて飲み歩いていた。人が喜ぶ顔を見るのが好きだったんです」(中島監督)

 豪快なイメージがあったが、実際には繊細な人だった。

「人前で誰かを叱ることは決してなかった。気遣いがありました。事実婚の奥さんのことは『姉さん』と呼んでいましたね。30歳年下なのに(笑)。奥さんがマスコミからバッシングを受け、体調を崩した時には、酷く心を痛めていました」(中島監督)

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