世間の「本音と建前」に苦しまれた雅子皇后 “逆風”が収まったきっかけとは?

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 雅子さまは婚約内定会見で、ご自身の果たすべき役割について「皇室という新しい道で自分を役立てることなのでは」と述べられています。それまで積んできた国際的な経験を生かし、伝統的な皇室を新しい国際化社会に対応させることが責務だとお考えになったのでしょう。ご成婚後に中東を訪問され、ロイヤルファミリーや首脳と語り合うお姿は「皇室に新しい風を吹き込む女性」として好意的に報じられてきました。

 その一方で、男の子を産むという非常に伝統的な皇室の“役割”を一貫して求められていました。しばらくはお二人のご成婚をことほぐ声が大きかったのですが、1999年12月の朝日新聞の「ご懐妊スクープ」で、だんだんとそのギャップがあらわになっていきます。リベラルなはずの朝日が、ご懐妊というデリケートな領域に踏み込んで報じたのは実に象徴的でした。建前としては雅子さまの国際的な活躍をたたえながら、本音では「まずはお世継ぎを」という思いが渦巻いており、その落差が雅子さまを大いに苦しめていきました。

 そして「おめでた」を巡る取材合戦はますます苛烈になっていきました。当時の宮内庁担当記者は、雅子さまの生理周期まで調べ上げ、少しでも異変を耳にすれば取材に走ったと聞きます。ご自身のもっともプライベートな情報がメディアにまで流れているという状況が続き、宮中で誰を信用していいのか、全く分らなくなってしまったはずです。

秋篠宮家とのコントラストが鮮明に

 愛子さまが誕生されると「今度こそ男児を」の声が聞こえるようになりました。現に高松宮妃喜久子さまも「婦人公論」で、「妃殿下に過度の心理的負担をお掛けしてはなりません」としつつ、2人目に期待する感想を寄せられていたのです。

 2004年5月の「人格否定発言」では、秋篠宮さまが同年11月のお誕生日会見で「せめて陛下とその内容について話すべきだった」と苦言を呈するなど、兄弟の“不和”も話題になりました。雅子さまは適応障害と診断されましたが、当時は病気が理解されず、“さぼり癖”ではないかとの心ない声も浴びせられ、東宮家は宮中で孤立を深めていきました。そうした中、悠仁さまが誕生されたこともあって秋篠宮家の株が上がっていきます。公務をこなさないとも捉えられた東宮家と、お世継ぎまで残された秋篠宮家というコントラストが鮮明になっていったのです。

逆風が収まったきっかけ

 そんな逆風が収まってきたのは、上皇さまの「生前退位のご意向」が大きかったと思います。笑顔が増えていった雅子さまに人々は復活を感じ、今度こそキャリアを生かした仕事をなさるのではと、再び期待を寄せるようになりました。

 皇后の仕事は、憲法にも皇室典範にも規定されていません。美智子さまもまたご自身の才覚とキャラクターでお仕事を見いだし、取り組んでこられました。今の世の中、必ずしも上向きの人ばかりではありません。そうした人々に、苦しみや傷を抱えてこられた両陛下ならば、きっと優しく寄り添うことができるはずです。

河西秀哉 名古屋大学大学院准教授

週刊新潮 2023年6月15日号掲載

特集「“激動の”連続 『天皇皇后』 苦難を乗り越えた『ご成婚30周年』私はこう見た」より

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