和田毅vs石川雅規、松坂大輔vs村田修一 高校以来の“因縁の対決”は交流戦でどう実現したのか

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“返り討ち”を宣言した杉内

 杉内も和田同様、高校時代のライバルとの再対決に闘志を燃やした。鹿児島実エース時代の杉内は、川内高・木佐貫洋に2年秋、3年春の県大会で連敗。「最後の夏は何としても勝ちたい」と雪辱を誓い、夏の県大会決勝での3度目の対決を3対1で制した。

 その後、杉内は三菱重工長崎を経て、2002年にドラフト3位でダイエー入り。亜細亜大に進学した木佐貫も2003年に自由枠で巨人に入団し、新人王を獲得した。

 そんな木佐貫に対し、杉内は「巨人には負けたくないし、木佐貫と投げ合うことになったら、打席でもヒットを打ちたい」と“返り討ち”を宣言した。

 だが、両者のプロ初対決が実現するまでには、交流戦導入から8年もの月日を要した。2013年5月20日の日本ハム対巨人戦で、日本ハム・木佐貫VS巨人・杉内というお互い所属球団が変わり、所属リーグも入れ替わる形で異色の再対決が実現する。甲子園出場をかけて激突した高3夏から15年もの月日が流れていた。

 当時のチームメイトから激励のメールも届くなか、お互い「負けられない」の思いで投げ合った息詰まる投手戦は、6回まで1対1とほぼ互角。だが、7回2死、杉内は、大引啓次に真ん中低めスライダーを左翼席に運ばれ、8回を4安打2失点ながら、負け投手になった。

 一方、7回を5安打1失点に抑えた木佐貫は、古巣・巨人との初対決で勝利投手になったことにより、史上12人目の全12球団勝利を記録した。一発に泣いた杉内は「お互い年取りましたね。勝てれば良かったんだけど、次投げ合うことがあったら、勝てるように頑張りたい」と通算5度目の対決に意欲を見せたが、実現することはなかった。

「何としても甲子園の借りを返したかった」

 投手同士の対決だった和田、杉内に対し、打者として“平成の怪物” 松坂大輔に挑んだのが、村田である。

 東福岡高エース時代の村田は、1998年のセンバツ3回戦で、松坂大輔の横浜高に0対3で敗れた。0対0の6回、松坂に左翼フェンス直撃の先制タイムリー二塁打を許し、打者としても4打数無安打2三振に抑えられた村田は、松坂とのレベルの違いを肌で感じ、「ピッチャーをやめよう」と決意した。

「大学(日大)でもピッチャーとしてやっていける自信はあったけど、松坂に対抗するためには、打者に専念するほうが有利だと思った。プロで彼からホームランを打って、何としても甲子園の借りを返したかった」(村田)

 その願いが叶ったのが、横浜時代の2006年5月19日の西武戦。第1打席から三振、三ゴロ、三振と3打席続けて松坂に抑えられた村田だったが、6対9で迎えた7回1死、松坂から左中間席に130メートルの特大弾を放ち、ついに8年越しの夢を実現した。

「完璧なホームランでした」(同)

 松坂は同年オフ、レッドソックスにポスティング移籍し、これが両者の最後の対決となった。村田は巨人を自由契約になり、独立リーグのBC栃木に所属しながらNPB復帰を目指した2018年にも、“永遠のライバル”松坂(当時・中日)との再対決を目標のひとつに挙げていたが、叶うことなく終わっている。

 現在の交流戦は1カード3試合(導入当時は6試合)と対戦機会が減っているだけに、まだ実現していない因縁対決も少なくない。そんなファン待望の対決が今後、実際に行われるかどうか注目したい。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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