【藤圭子】突然の死から10年 「暗いさみしいうたが好きです」デビュー当時、記者にこう答えた彼女の心の闇に迫る

  • ブックマーク

「暗い淋しい歌が好き」

 経歴を振り返る。北海道から上京し、「新宿の女」でデビューしたのは1969(昭和44)年9月。18歳のときだった。学生運動の象徴だった東大安田講堂が陥落してから8カ月。時間の流れとともに騒乱の熱狂は冷めつつあったが、ドスのきいた歌声は迫ってくるような凄みがあり、挫折感が広がっていた学生たちから圧倒的な支持を得た。

 大きな黒い瞳に、長い黒髪。京人形のような愛くるしい面立ち。紺のパンタロンに白いギターを抱え、夜のネオン街などでキャンペーンをした。キャッチフレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。降り注ぐスポットライトの中で直立していた藤さん本人は、どう思っていたのだろう。

「暗い淋しい歌が好きです。映画、悲しい物語。漫画もコミカルなのはだめです」

 デビュー翌年の70年、朝日新聞の記者にこう答えている。

 その一方で、イメージ戦略というのはあったかもしれない。

「フッと笑う彼女の素顔は明るい。歌だけの彼女を思う人には意外にすら見える。うちとけるとよく話し彼女の明るさがわかると友だちは言う」

 この記事も同じころ書かれた。その一方で、「あまりたくさんのヒトとつきあいたいと思わないです。(中略)。気に入らないヒトでもニコニコあいさつしなきゃいけないでしょう。やっぱ相手にカンジよくしなきゃいけないし……」。そんなことも記者の取材に答えている。

 子どものように明るく無邪気な藤圭子と、ドロドロとしたどす黒いものを秘めた藤圭子。どこまでが虚像でどこからが実像なのか、分からなくなってくる。

 だが、虚像も実像もいつしか一体化してひとり歩きしていくのがスターの宿命である。

 そういえば、藤さんをデビュー前から知っていた音楽プロデューサーの小西良太郎さん(1936~2023)は私の取材にこう言っていた。

「時代の風に巻き込まれ、どうすることもできなくなってしまった。生身の阿部純子(本名・旧姓)とのギャップも大きくなりすぎた。自分が夢にまで見た家庭の幸せも、離婚などがあり崩壊。長い孤独の果てに、死を選んだのではないか」

 こんな声もあった。新宿ゴールデン街で小さなスナックを経営していた渚ようこさん(非公開~2018)は、藤さんの死を聞いてこう思った。

「歌を歌う人って、すごく紙一重なところがあるんです。そのぎりぎりの紙一重のところを超えてあちら側にいっちゃったんだな」

 渚さんも、グサリと突き刺すような歌声だった。行間からあふれる負の叫び。クールに構えながらも情熱にあふれていた。聴く人の心の痛みと孤独と不幸に精いっぱい寄り添ったが、「山形から上京した」と言うだけで自らの過去はほとんど語らなかった。

 いずれにしても、藤さんがなぜ自死を選んだのか、その理由は本人しか分からないだろうが、彼女の生い立ちを探っていくと深い「心の闇」の一端が見えてくるようである。

 少女時代を過ごした北海道に、私は向かった。
(続く)

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。