宮内庁長官に批判され、記者クラブに追及されて……「雅子皇后」が記者会見をなさらなくなった歴史的経緯

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なぜご出発の8日前に閣議決定?

 6月9日にご成婚30周年を迎えられた天皇・皇后両陛下。御祝いの余韻も冷めやらぬうち、17日からはご即位後初めての親善ご訪問でインドネシアに赴かれるが、雅子皇后にとっての「最後のハードル」が立ちはだかっており……。

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 今回のご訪問が最初に報じられたのは、4月上旬のことだった。宮内庁担当記者が言う。

「両陛下と愛子さまが御料牧場でご静養中だった4月6日、松野官房長官が会見で“訪問される方向で調整”と明かしたのです。この時点で日程は“6月後半”となっていましたが、通常はご出発のひと月前には閣議決定がなされる。それが今回は8日前という、異例のケースでした」

 というのも、

「宮内庁と外務省が合同でインドネシアに先遣隊を派遣したのは5月半ばになってからでした。そこからようやく先方との調整が始まったのですが、ぎりぎりまでずれ込んだ大きな理由は、雅子さまのご体調の判断に時間を要したからです」(同)

 先遣隊が戻ってきた5月下旬の段階でも、

「西村泰彦宮内庁長官は会見で『まだ調整中の箇所がかなりある』とし、遅れを懸念する質問にも『(相手国の)ラマダンなど、さまざまな状況が重なって遅れている』と“弁明”していました。ですが実際のところは、6月3日から1泊2日で岩手県を訪ねられた雅子さまのコンディションを見極め、お疲れを取り除いていただく必要があったのです」(同)

“巨大な障壁”

 それは“令和初の親善ご訪問は、是非とも両陛下おそろいで”との大前提があったからに他ならない。

「侍従職によれば、現在でも雅子さまは“行事が続いた後はお疲れが残る”状態にあるという。宮内庁はそんな“ご体調の波”と、直前まで向き合わざるを得ませんでした」(同)

 苦心を重ねた末にご訪問へとこぎ着けたわけだが、それでも雅子皇后は、今なお“巨大な障壁”に苛まれているというのだ。

「それは、記者会見という雅子さまにとって最大にして最後の難関です。外国への公式ご訪問前には、陛下や皇族方は会見に臨まれるのが慣例。今回もご出発の2日前に予定されていますが、雅子さまはご体調を考慮してご欠席、陛下お一人でという運びとなりました」(同)

宮内庁長官が雅子さまを批判

 雅子皇后が最後に記者会見をなさったのは、今から20年以上前、2002年12月5日に遡る。

「東宮御所ではこの日、12月9日のお誕生日に先立つ雅子さまの単独会見、そして11日に控えていたオセアニアご訪問に際しての皇太子さま(当時)とご一緒の会見という二つが開かれました」

 とは、当時を知る皇室ジャーナリストである。

「このうち、ご夫妻で臨まれた会見で雅子さまは『結婚以前は外国に行くことが生活の一部となっていた』『外国訪問が難しいという状況は、適応することに大きな努力が要った』などと、率直にご心情を吐露されていました。ところが、ここから“男児を生むより海外が大事なのか”との批判が起きてしまったのです」(同)

 さらに続けて、

「ご出発後の12月12日、今度は当時の湯浅利夫宮内庁長官が、雅子さまのご発言を捉えて『外国訪問をあれだけなさりたかったのかと、正直言って驚いた』と、会見の場で批判したのです。長官はまた『お世継ぎ問題とは小さなものではなく、ご負担の大きい外国訪問を積極的に進めることは難しかった』と、“お世継ぎが最優先”との姿勢をあらためて示したのでした」(同)

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