雅子皇后“苦難の30年”を振り返る 適応障害、愛子さまの不登校
天皇皇后両陛下のご成婚から、6月9日でちょうど30年。御代替わり後に世を覆ったコロナ禍も収束してご公務は本格化し、月内にはインドネシアご訪問も予定されている。とはいえこの間、両陛下の歩まれた道のりは決して平坦ではなく、むしろ苦難の連続であった。
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1993年6月9日の夕刻、当時33歳だった陛下と29歳の雅子皇后は、皇居から赤坂御用地まで4キロ余りのパレードに臨まれていた。オープンカーから手を振られるお二人を見ようと沿道に詰め掛けた観衆はおよそ19万人。テレビの生中継では、各局あわせた瞬間最高視聴率で85.6%を記録した。
これに先立ち同年1月19日、婚約内定会見を開かれたお二人は、プロポーズの内幕をご披露。雅子皇后は、
〈外務省で大変やりがいのある仕事をしていたので、仕事を辞めるべきかどうかだいぶ悩んだ〉
そう吐露されながらも、
〈皇室に入られることは不安や心配がおありでしょうが、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします〉
陛下からそう言われたことで「心を動かされた」と明かされたのだった。
宮内庁にも不信感
外交官としての道を絶って皇太子妃となられてからも、雅子皇后は引き続き「皇室外交」を担いたいと願われていた。ところが、実際に求められたのはもっぱら「お世継ぎ」であり、そうしたプレッシャーは年を追うごとに増していった。99年12月10日には、
〈雅子さま 懐妊の兆候〉
と、朝日新聞が1面でスクープ。が、同月末、稽留流産だったと判明した。これら一連の過程で、雅子皇后はメディアとともに宮内庁にも拭い難い不信感を抱かれてしまった。
2001年12月には愛子さまが誕生。翌年4月、陛下と会見された雅子皇后は、
〈生まれてきてありがとう〉
と、声を詰まらせておられたのだが、同年12月、オセアニアご訪問前の会見では、こう漏らされている。
〈外国訪問が難しいという状況は、適応することに大きな努力が要った〉
第2子、とりわけ男子を求める新たな重圧に苛まれていた雅子皇后は、03年暮れに帯状疱疹を発症、長期ご静養が発表される。そして04年5月、欧州歴訪前の会見で陛下がこう口にされると、世に激震が走ったのである。
〈雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった〉
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