徳川家康を「6つの城」でたどる 天下人になってから構造が大きく変化した理由
最後に自分のために築いた駿府城
そんな家康が自分のために築いたのが、終の棲家になった駿府城だった。慶長10年(1605)に将軍職を嫡男の秀忠に譲ると、自分の隠居状に駿府城を選び、外様大名たちに命じて慶長12年(1607)2月に工事がはじまった。
もちろん隠居とは名ばかりで、家康の狙いは大御所として、より自由な立場で政権を運営することにあった。慶長12年のうちに、三重の水堀がめぐる輪郭式の平城(高低差のない城)が完成したが、12月に失火で本丸が全焼。ふたたび諸大名に命じて工事が行われ、翌慶長12年(1607)に天守が落成し、全体は同15年(1610)に竣工した。
じつは駿府城も、大坂方が江戸に進軍した場合、その前で押しとどめる役割を負っており、直線基調の単純な構造は名古屋城などと共通している。
だが、家康が自分のために築いた城だから、それだけにはとどまらない。令和2年(2020)までの発掘調査で明治時代に埋められた本丸から、東西約48メートル、南北約50メートルと史上最大の天守台が出土し、現在、間近で眺められる。家康はこの天守台の四隅に櫓を建て、その中央に5重6階、もしくは6重7階の、金箔瓦で彩られた御殿風の天守を建てた。
東海道から富士山を借景に眺められたというこの華麗な天守。四つの櫓で手堅く守られた威厳ある姿は、徳川の世と、それを築き上げた家康自身を象徴していた。
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