徳川家康を「6つの城」でたどる 天下人になってから構造が大きく変化した理由

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大坂を意識した城の明快な構造

 だが、家康による築城は江戸城で終わらなかった。最大の理由は大坂に豊臣秀頼がいることだった。西日本には関ヶ原の合戦後に領地を加増された豊臣恩顧の大大名がひしめいている。彼らが秀頼を担いだら――。家康は豊臣方との避けられない一戦を意識して、天下普請での築城を重ねたのだ。

 東海道を押さえる膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、彦根城(滋賀県彦根市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)など、家康の命で築かれた城のうち、篠山城(兵庫県丹波篠山市)と名古屋城(愛知県名古屋市)を見てみたい。

 二つの城が似ているのは、正方形を組み合わせたような単純な縄張りで、塁線に直線が連ねられていることだ。ただし、広い堀の対岸に高い石垣が築かれ、要所に米などを計る枡にたとえた枡形門が設けられた。門をくぐると方形の空間(枡形)があり、もう一つの門は枡形の右か左に開けられ、敵はまっすぐ侵入できないばかりか、枡形に閉じこめられて周囲から撃たれるという仕組みだ。

 しかも、枡形の周囲や塁線上には長屋式の多門櫓が建ち並ぶので、敵の侵入はほぼ不可能で、近づけば雨天でも火を使える多門櫓からたちまち撃たれる。そして隅角には二重、三重の巨大な櫓が建つ。

 城の敷地には迷路のようだというイメージがあるのではないだろうか。しかし、家康が天下人になってから築いた城は、反対に構造が単純だった。戦闘の規模が拡大した以上、大兵力を収容でき、攻撃しやすいことが重要だったのだ。単純な構造は高い石垣や広い堀、多門櫓や櫓で補われ、迷路よりよほど鉄壁の守りにつながった。用意周到な家康らしい。

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