徳川家康を「6つの城」でたどる 天下人になってから構造が大きく変化した理由

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天下を取る前と後での築城工事の違い

 家康が駿府城を拠点にしたのは4年未満にすぎなかった。天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと、家康はその領国だった関東に移封になったからだ。

 家康があらたに拠点にしたのは、15世紀に太田道灌が築き、その後、北条氏が整備した江戸城だった。しかし、それは駿府城とくらべてもかなり見劣りする前時代的な土の城だったようだ。

 家康はそんな城を、累々たる石垣で固められた日本最大の城に整備していくが、ただし急がなかった。豊臣政権下の一大名にすぎなかった時代は、秀吉から要らぬ疑いを抱かれないように、江戸城の整備にも非常に慎重だったのである。

 しかし、自身が天下人になってからは違う。慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられると、翌年には諸大名に江戸城の普請を命じている。大名たちに分担させ、彼らの負担で工事を行うことを天下普請と呼ぶが、それは大名の築城技術を利用しながら彼らの経済力を削いで叛乱を防ぐ、一石二鳥の施策だった。

 石材は江戸周辺からは産出されないので、大名たちは主に伊豆半島周辺から船に載せて江戸に運送し、ときに瀬戸内から運ばれた。家康がグランドデザインを描いた江戸城の工事は、3代将軍家光の寛永13年(1636)まで、5回にわたる天下普請で延べ471もの大名を動員して行われた。こうして完成した江戸城の総面積は、外郭までふくめて約230ヘクタール。姫路城や名古屋城の10倍近かった。

 その後、何度も改修が重ねられた江戸城に家康時代の面影はあまりないが、いまも本丸東側の白鳥濠周辺などには、石を粗く加工しただけで積んだ家康時代の石垣を見ることができる。

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