徳川家康を「6つの城」でたどる 天下人になってから構造が大きく変化した理由
安土城を見て変化した城の姿
家康にとって人生最大の危機だった元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦。その舞台となった浜松城(静岡県浜松市)を、家康は元亀元年(1570)から天正14年(1586)まで、足かけ17年にわたり居城にした。
浜松城も訪れると石垣が累々と積まれ、戦後に復興された天守が建っている。だが、それは家康が関東に移って以後に整えられた姿で、やはり家康時代は、基本的には土の城だったと考えられている。だが岡崎城同様、家康時代の面影は見てとれる。復興天守が建つ天守曲輪や本丸は、石垣が複雑に折れ曲がり、平面はいびつな多角形をしている。丘陵の自然地形が反映された結果で、中枢部の構造自体は、家康時代の姿をとどめている可能性がある。
その後、家康は天正13年(1585)から、かつての今川氏の拠点に駿府城を築き、翌14年(1586)12月に浜松から移り住んだ。家康の城が大きく変化したのはここからだった。
当時の駿府城の詳細は不明だが、家康の家臣、松平家忠の『家忠日記』には、駿府築城の様子が書き記されている。そのなかには「堀普請候」「石とり候」「石かけ候」「てんしゆのたつたい普請」「小傳主てつたい普請」といった記述がある。そこからわかるのは、石垣が積まれ、大天守と小天守がそびえていたことだ。
家康は天正10年(1582)5月、本能寺の変の直前に織田信長に招かれて安土城を訪れている。安土城は総石垣の城としても、絢爛豪華な高層建築である天主がそびえる点でも、それまでの城と大きく異なった。また、安土城はたんなる軍事施設ではなく、訪れた人を驚かせ威嚇する「見せるための城」でもあった。
時代の変化や流行に敏感な家康は、安土で見た要素をさっそく駿府城に取り入れたのだろう。
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