徳川家康を「6つの城」でたどる 天下人になってから構造が大きく変化した理由

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 戦国時代、大名にとっても国衆(在地領主)にとっても、領土を守り、また、奪い取る戦いが続くなかで、自身の拠点となり命綱となったのが城だった。

 隣国との領土の境目では、城の奪い合いが絶え間なく繰り広げられた。ましてや、拠点となる城は、長期間の籠城に耐えられる堅牢な造りでなければならなかった。落城はそのまま滅亡につながったからである。

 織田信長が総石垣で、絢爛豪華な建造物が建ち並ぶ安土城を築き、城に相手を畏怖させる機能を付与してからは、城にとって見た目が立派であることも大切になった。

 また、戦闘が鉄砲を中心としたスタイルに変わると、城も鉄砲を使って攻めやすく、守りやすいように変化した。群雄割拠の状況から天下統一への過程では、多くの国を従えた大名が大軍勢を率いるようになると、権力者の城ほど大軍勢を収容でき、大軍勢の攻撃に耐えうることも大事になった。

 じつは、いま記した城の変遷は、徳川家康が三河(愛知県東部)の国衆にはじまって天下人になるまでの期間と重なる。だから家康の城を時代順に見ていけば、16世紀後半から天下泰平にいたるまでの時代の変遷がわかる。城が命綱だった以上、家康も築城に全力を投じている。だから、なによりも城をとおしてこそ、家康の人物像が浮かび上がる。

岡崎城の空堀に家康時代の面影

 ただ、家康の城といっても、家臣に築かせた小さな城まで入れると無数でキリがないので、家康が拠点にした城と、力を入れて築いた城にかぎって見ていきたい。最初は生誕の地、岡崎城(愛知県岡崎市)である。

 菅生川と矢作川の合流地点に位置する半島状の河岸段丘にはじめて城を築いたのは、家康の祖父の清康だとされる。少年時代を今川氏の拠点の駿府(静岡県静岡市)ですごした家康が、この岡崎城に戻ることができたのは永禄3年(1560)5月、織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を斃したのちで、それから10年間、ここを本拠にした。

 そのころの岡崎城がどんな姿であったか、具体的にはわからない。現在、岡崎城は石垣で固められ、明治初年に取り壊された天守が古写真を参考に再建されている。しかし、岡崎城に石垣が本格的に導入されたのは、天正18年(1590)に家康が関東に移ったあとで、それまでは基本的に土塁と空堀がめぐらされた土の城だったと考えられる。

 しかし、家康時代の岡崎城を思い浮かべるためのヒントがある。現在も本丸の北側に、清海堀とよばれる空堀が二重に配されている。また、北側の二の丸から本丸までは直線距離はわずかなのに、空堀に囲まれた狭い通路を何度も曲がらないとたどり着けない。清海堀やこの屈曲した通路は、原型が家康時代に築かれた可能性が高い。

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