巨人、史上最強の「5番打者」と呼ばれた男 「柳田真宏」が明かす最も輝いた1977年

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登録名を変更して心機一転

 テレビや雑誌の野球企画で、巨人、阪神の歴代4番打者が何度も取り上げられるのに対し、「5番打者」が話題になることはほとんどない。そんな風潮にあって、かつて「巨人史上最強の5番」と呼ばれ、脚光を浴びた男が存在した。長嶋茂雄監督がチームを率いた1977年。張本勲、王貞治のあとの5番を打ち、リーグ3位の打率.340、21本塁打、67打点を記録した柳田真宏である。50代以降の野球ファンなら、ほとんどの人が懐かしく思い出すはずだ。現在は歌手活動の傍ら、東京都八王子市でカラオケスナック「まむし36」(まむしは現役時代のニックネーム)を経営する柳田氏に最も輝いたシーズンを振り返ってもらった。【久保田龍雄/ライター】

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「あの年は楽しかったことより苦しかったことのほうが多かったですね」

 開口一番、意外な答えが返ってきた。西鉄から巨人に移籍後、主に代打の切り札として勝負強い打撃を見せた柳田だったが、プロ11年目の1977年は、長年の悲願、レギュラー定着を実現させようと、目の色を変えて練習に励んでいた。

 登録名も「ケガが多いから、気分転換に変えてみたら」という黒江透修コーチのアドバイスで、心機一転、本名の「俊郎」から「真宏」に変えた。

「黒江さんの知り合いが考えてくれた3つか4つの候補の中から、“マーちゃん”って呼びやすいんじゃないかって感じで、真宏を選びました。姓名判断してもらうと、(専門家は)みんな“素晴らしい”って言うんですね」

 同年の大活躍は、まさに“改名効果”と言うべきものがあった。だが、一方で、それまで以上に試練も相次ぎ、苦悩することも多かった。

「ヤナ、これは事故なんだ」

 3月20日のオープン戦、ヤクルト戦の試合前の打撃練習中、柳田が放ったセンター最深部への打球が、キャッチボールをしていた外野手、末次利光の左目に当たるという不幸な事故が起きる。負傷の後遺症で視界が狭くなった末次は、同年限りで現役を引退した。

「ショックだったですよ。(同郷・熊本の)大先輩で、いろいろなことを教えてもらったから、心配でしょうがなかった。(開幕後も)東京にいるときは必ず病院にお見舞いに行って、それから後楽園に入るということをずっとやっていたんです。そしたら、『ヤナ、これは事故なんだ。お前が気にすることはない。野球に打ち込め』って」

 先輩の気遣いに心から感謝した柳田は、末次の代役として5番ライトで出場しつづけたが、大打者・王のあとを打つプレッシャーは、並大抵のものではなかった。

「5年くらいピンチヒッターをやってきたけど、ピンチヒッターの緊張とは違うんです。王さんのあとというのは。なんせ2死二塁なら100パーセント敬遠(で5番勝負)ですから。やっぱガチガチになりましたね」

 開幕直後に3割を超えていた打率も、4月下旬に27打数4安打と不振を極め、5月初めには.236まで下がったが、持ち前の“負けじ魂”は失わなかった。

「試合から帰ったあと、やられたのが悔しいから、ひたすらバット振って、夜中に目が覚めると、蝋燭の火を灯して、朝の5時ごろまで、またバット振って。それから10時ごろまで寝て、球場に行っていました」

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