研修生応募者がついにゼロの異常事態 文楽は“令和の危機”を乗り越えられるのか
「人形は、何でもできるんやで」
今回、多忙な公演の合間に、養成所2期生出身の人形遣い、吉田勘彌さん(68)が取材に応じてくれた。
「私は岡山県倉敷市の出身です。父親が自営業で、伝統芸能にはまったく無縁の家庭です。文楽なんて見たこともなく、興味もありませんでした」
中学・高校時代は“帰宅部”の平凡な若者で、東京の大学に進学した。
「ところが、あのころ、モラトリアムって言葉が流行してましてね。社会に出るのを先延ばしにする生き方がカッコいいように思われていました。私もそれに憧れて、東京へは出たものの、ろくに大学へも行かず、プラプラしていたんです」
この時点で、「文楽」の「ぶ」の字も出てこない。このインタビュー、大丈夫なのか、不安がよぎる。ちなみにこの勘彌さんは、5月の東京公演「夏祭浪花鑑」で、火鉢で焼けた鉄弓を自らの顔にあてる凄絶な女、「徳兵衛女房・お辰」を遣っていた方である。
「そんなとき、新聞で、国立劇場の養成所の記事を読んだんです。歌舞伎とか文楽とか、いろいろあるようで、期間は2年間とある。どうせモラトリアムをやるんだったら、その2年間を、こういうところで過ごすのもいいかな……歌舞伎よりは、文楽のほうが面白そうだ……その程度の気持ちで、応募したんです」
ところが、入ってみたら驚いた。
「いまでも忘れません。最初の人形の授業でした。人間国宝の、先代・吉田玉男師匠が、左遣い・足遣いとともに、立役(男性)の人形をもってこられたんです。するといきなり、その人形が、右手で、自分の左足の裏をポリポリと搔くじゃありませんか。3人とも黙ったままで、視線すら合わせていないんですよ。人形が勝手に動いたようでした。そして玉男師匠が、こう言ったんです――『人形は、何でもできるんやで』。すごいなあ! と、感激してしまいました」
こうして勘彌さんは、人形遣い専攻に進む。
「授業が面白いんですよ。講師は人間国宝クラスの方ばかり。文楽だけじゃなくて、能、狂言、茶道、日本舞踊、さらに落語の授業まであって、笑福亭松鶴師匠(六代目)が来て噺をしてくれる。奨励金をもらったうえ、こんなにいろんな経験ができるとは、夢にも思わなかったです」
もちろん、大学はやめてしまった。
「当時は、まだ大阪の国立文楽劇場が開場前だったので、研修は東京が中心でした。厳しかったけど、講師の師匠たちがよく食事や酒席に連れて行ってくださって、毎日楽しかったです。そのうち私は、人間国宝の、二代目・桐竹勘十郎師匠のお人柄に心酔してしまいました。豪快な面と繊細な面を両方もっている方で、卒業後は、そのまま勘十郎師匠のもとに入門しました」
こうしてプロの人形遣いとなり、当然ながら足遣いからの修業が始まった。
「ところが、文楽界は狭い世界でしょう。人形遣いはせいぜい40人くらいしかいない。私はひとりで部屋にこもって読書というタイプでしたので、濃密な人間関係がストレスになってきて、2年目ほどでやめてしまったんです」
その後は1人でやれる仕事を求めて、ガラス工芸のスタジオなどに出入りしていた。
「2年ほど他の世界にいましたが、あるとき、勘十郎師匠が病気で身体がきついらしいと聞きました。やはり、私はあの師匠のもとにいたいのだと気づき、ふたたび弟子入りさせていただきました。今では他者といっしょに作り上げる作業に魅力を感じています」
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