【渥美清の生き方】遺言は「骨にしてから世間にお知らせしろ」 「明日はいよいよ撮るんだね。僕はつらい」亡くなる直前の様子を関係者が証言

  • ブックマーク

「リリーと寅さんを結婚させて」

 異変を察知したのは共演した浅丘ルリ子さんだった。松竹大船撮影所でのセット撮影でのこと。寅さんと仲良く一緒に帰ってくる場面。手が細く、腕を組むのも悪いように思った。浅丘さんは私の取材にかつてこう語った。

「とてもおつらそうなの。『寅さーん!』と抱きついても、以前ならボーンと受け止めてくれたのに、細いんです、凄く。(腕を)組むのも悪いような気がしました」

「『寅さーん』『あいよー』とそれまで丁々発止でやれたのに。目の底が引っ込んでいましたし、顔の表情もありませんでした」

 渥美さんの普段のよく響く声もかすれがち。浅丘さんは「今回がきっと最後」と思い、山田監督に「リリーと寅さんを結婚させて」と頼んだ。

 渥美さんは、寅さんを演じ切ることが使命と思っていたのだろうか。

 貴重なインタビュー映像がある。「寅次郎紅の花」のロケの合間に、NHKのドキュメンタリー番組の取材に答えた渥美さんの証言だ。渥美さんは寅さんを演じる心境を、スーパーマンを演じた役者にたとえてこう語った。

「撮影のときに、見てた子どもたちが『飛べ、飛べ、早く飛べ!』って言ったけど、2本の足で地面に立ってちゃいけないんだよね。ご苦労さんなこったね。スーパーマン、飛べないもんね。針金で吊ってんだもんね」

 その「スーパーマン」の苦悩を、周囲はどれほど理解していただろう。

 渥美さんは目黒区碑文谷の自宅とは別に、東急代官山駅前のマンション(表記はアパート)で暮らしていた。中に入った人の話では1K。家財道具はベッドとテレビしかなく、書棚には本がぎっしり並んでいた。

 殺風景なその部屋で、たった一人になる。体に染みついた生活の匂いを消し、田所康雄から渥美清になった。仕事の連絡や郵便物はすべて部屋で受けた。

 亡くなる前、渥美さんは親しかった友人にこんな電話をかけている。やはり別れの言葉を告げたかったのだろうか。

 関敬六さんに。「競艇には相変わらず行っているのか。いいなあ、お前は元気で」

 黒柳徹子さん(89)に。「お嬢さん、これからも元気でいてください」

 谷幹一さん(1932~2007)に。「俺はだめだ。もうじきだからな、逝くよ」

 弱々しく、途切れ途切れだった。その声はまさに、本名・田所康雄の心からの叫びだったかもしれない。だが、実像も虚像も一体化して一人歩きしていくのが、大スターの宿命。渥美さんも「寅さん」のイメージからなかなか抜け出すことが難しく、この世を去った。

 コラム「メメント・モリな人たち」の次回は、歌手・藤圭子さん(1951~2013)。大ヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」(1970年)は「怨歌(えんか)」とも呼ばれ、挫折感が広がっていた全共闘世代の心をとらえた。彼女もまた、時代が求める虚像と自分自身の実像のギャップに苦しんだ人だったかもしれない。その生き方は、下層から這い上がってきた人間の凝縮した怨念が一挙に燃焼した一瞬の閃光と評していい。

 まずは10年前。藤さんが新宿の高層マンションで非業の死を遂げた2013(平成25)年8月22日に戻ってみよう。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。