【渥美清の生き方】遺言は「骨にしてから世間にお知らせしろ」 「明日はいよいよ撮るんだね。僕はつらい」亡くなる直前の様子を関係者が証言

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「明日はいよいよ撮るんだね。僕はつらい」

 すでに自らの運命を悟った渥美さんが家族に伝えた遺言は、「骨にしてから世間にお知らせしろ」。自分が亡くなったことは決して明らかにせず、荼毘に付してから発表しろ、という強い意志だった。その言葉通り、妻と長男、長女の3人だけで荒川区の町屋斎場で田所康雄(本名)の葬儀を営み、すべてが済んでから山田監督に悲報を伝えた。監督が目黒の田所家を訪ねたときは、渥美さんは小さな骨壺に入っていた。

 遺言は見事に果たされた。そう言っていいだろう。とかく有名人の死はどこからかリークされやすいが、渥美さんが入院していた病院からは、訃報は一切漏れなかった。病院スタッフの思いやりを感じる。町屋斎場でも、まさか国民的人気者の渥美さんの葬儀とは誰も思わなかったに違いない。

 それにしても、渥美さんの身体について「尋常ならざる異変」に気づいた人はいなかったのだろうか。当時を振り返ると貴重な証言が浮かび上がってくる。

 奄美ロケ前の95年10月24日。阪神大震災の被災地・兵庫県神戸市でのロケ。

「明日はいよいよ撮るんだね。僕はつらい」

 神戸市内のホテルで渥美さんがそうつぶやいたのを側近は聞いた。26年続いたシリーズの中で、そんな発言は初めてだった。

 多くの命が失われた焼け跡。寅さんが手土産を提げて、見舞いに駆けつけるというシーンである。「雪駄であの地を歩いていいのだろうか」。そんな思いもあったに違いない。ロケの合間の休憩中も、渥美さんはファンの声援に応じず、椅子に座り、黙って地面を見つめていた。

「もっと明るい表情になってください。久しぶりに会う被災地のみんなが元気だから、寅は上機嫌なんです」と山田監督は頼んだ。

 あのころ渥美さんのがんは肝臓から肺に転移し、かなり進行していた。立っているのもやっとだった。寅さんのトレードマークである四角いトランクも重かったに違いない。しかも、若いころには結核を病み、片肺を摘出している。

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