栗山監督はなぜ若手に慕われる指導者になれた? 二人の側近が驚嘆した「信じる力」に迫る
ブルペンの魔術師
今までにない投手コーチになると誓った厚澤は、いつしか“ブルペンの魔術師”と呼ばれる存在になった。
「ブルペンで準備する投手は絶対にネガティブなことを考えません。いま投げている投手が打たれるとは思っていないのです。でも僕は2死走者なしからでも準備させることがある。野球は一球で流れが変わります。2ボールになった時点で作らせる僕がいることに価値があると考えています」
プロ野球各チームのブルペンコーチは大半が、ベンチから電話で指示を受けて動くという。すると準備が遅れ、慌ててマウンドに向かい打たれる例が多い。だから厚澤は戦局を読み、先に手を打つ。
今回のWBCで厚澤にとって大きな勝負だったのは、1次ラウンドで伊藤と宇田川優希をワンポイントで使ったことだという。
「野球では、あとひとつのアウトを取るのが難しい場面がある。そんな時、誰が頼りになるか。今回のチームで三振が欲しい場面で取れるのは伊藤と宇田川だとずっと言っていました。栗山監督と吉井コーチに早くそれを証明したかった」
その助言が、準々決勝イタリア戦の5回表、大谷が2点を失い、なおも2死一、三塁の場面で生きた。ベンチは迷わず伊藤を投入し、伊藤は相手打者をショートフライに打ち取った。
苦労人ばかりの栗山ジャパン
栗山ジャパンで選手と直に接する機会の多いコーチたちはそれまでの野球人生で必ずしも勝利者といえない、“苦労人”だ。
栗山自身、大学4年の時、自ら売り込んでヤクルト入団を勝ち取ったテスト生だ。
城石は2度甲子園に出場したエリート球児だが、大学では体育会体質に疑問を抱き、入学して1週間で中退。「もう野球には戻れないと思っていた」失意の1年を過ごしている。1年後、偶然手にして読んだ本が、『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』だった。テスト生で入団し、メニエール病に苦しみながら現役を続ける栗山の姿に感銘を受けた。もう一度野球をやると決める背中を押してくれたのは栗山だった。日本ハムでプロ入り、その後ヤクルトへ移り主に控え内野手として15年プレー。後に日本ハムの監督とコーチとして出会い、親交が始まる。
厚澤もまた現役時代は敗者だったことはすでに書いたとおり。そう考えると、栗山も城石も厚澤も、プロ野球選手になったのは布石にすぎず、監督、コーチになることが彼らの約束されたゴールだったのではないかと思えてくる。その面々が日本代表の首脳を務めたのは、古い体質の野球界にあって奇跡的な出来事。栗山人事を実現させた侍ジャパンフロントの慧眼と認めないわけにいかないだろう。
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